史跡めぐりの記事です。今回は、遺構がないので2つ掲載です。名古屋市西区にある丹羽長秀邸と北区にある平手政秀邸(志賀城)です。

 

丹羽長秀邸(にわながひでてい)

児玉白山社の南側に、織田信長の重臣として活躍した丹羽長秀の生誕地で屋敷跡とされています。長秀は、この児玉の地で天文4年(1535)丹羽長政の次男として生まれました。丹羽家は、斯波家の家臣でしたが、天文19年(1550)頃、織田信長に仕えてその後、活躍しました。すぐ近くに名古屋城三の丸に在った志水甲斐守屋敷の玄関車寄が移築されています。

 

平手政秀邸(ひらてまさひでてい)

志賀の地を領した平手政秀は、織田信秀の子、織田信長の傅役をつとめました。信長は行状が悪く、政秀は再三諫めましたが父信秀の死後もいっこうに改まりませんでした。天文22(1553)年正月13日、信長の将来を絶望した政秀はこの地で自害しました。信長はその死を哀惜し、一寺を建立し、政秀寺と号して厚く菩提を弔いました。

 

 

 

 

 

(1)丹羽長秀邸の碑、(2)長秀邸の近くにある名古屋城三の丸に在った志水甲斐守屋敷の玄関車寄、(3)平手政秀邸の碑、(4)尾張藩が建立した平手政秀顕彰碑

 

丹羽長秀邸は住宅地、平手政秀邸は公園の真ん中にあり両方とも遺構はありませんが、織田家の有名どころの史跡です。平手政秀邸は、尾張藩の顕彰碑が現地にあるのでこの場所を志賀城(平手政秀邸)と認定したようで確定場所ではない。平手政秀邸切腹の理由は、信長公記に書かれているように、政秀の長男・五郎右衛門と信長が不和が原因のような気もします。