100%自己責任を取るという意味は、自分の感情、自分の感じる感情すべてを自分のものとすることを言っています。
が、自分の感情がこんな風になってるのはあの人のせいだ…と思いたいのも理解できます。
地雷や空爆を受けたならその戦争責任は相手方にあると思ってしまいます。攻撃をして来たのは相手であり、私はただここに存在していただけなのに。
でも本当はすべてが絡み合い、繋がり合いながら、相手が地雷を仕込む、空爆を放つ、そのずっと前から私たちの内側にはそれらを受けるべき、癒されるべき傷があり、その傷がセンサーとなり、的となる。
虚無的な感情的戦争をしていながらも、愛だ光だと口では言えてしまうのも幻想のワンネスならでは。
頭で考えて怒ってる。
ハートは固いまま。
プライドがじゃましてる。
素直になれなくて。
よく私は「今までよく自分のことを見てきたつもりだったのですが…」とか、「たくさん解放して来たのにまだこんなことになるなんて…」と落胆する言葉を吐露する人たちに会ってきた。
当たり前だよ。
ここでの私たちのに肉体意識にはたくさんのものがついちゃってるし、高次意識がしっかりとピッタリとボディと常にフィットしてる人なんてあまりお見かけしません。
感情が揺さぶられる、悲しみや、怒りが湧いてくるのは恩寵だととらえてみるといい。
それらが出てきた時の自分の対応にこそ真価が問われる。
これは何もわかった風になれとか、いい人になれ、優しい人になどと言っているのではない。
間逆です。
それらを出して、その後に自分がどのようにそれらの感情や感覚、信念と向き合い、うまくゆかなかった行動のパターンは改めてゆくなり、深い部分の癒されていない自分を癒すなりしないと、世界の戦争が終わらないのは私たちの内側のその他者への攻撃性にこそある。
昨日、東京からの帰り道。
私鉄の電車のドアが閉まるころに酔っ払ったおじさんが電車の車両にドンッ‼︎とぶつかった。
ちょうど、私が座ってた側の車両に当たって倒れられた。私はビックリして窓の外を見た。
その時に聞こえた言葉にゾッとした。
「あ~、めんどくさいおっさんやな~。」
若い女性だったけれど、向かい側に座っていたので、よろよろ歩くその男性が見えていたのだと思います。
確かに、電車が遅延するのはその女性にとっては「めんどくさい」ことなのかもしれないし、酔っ払いは確かにめんどくさいけれど、そこに愛は全く無かった。
都会では人との距離はとても近いのに果てしなく心は分離しており、繋がっていない。
パーソナルスペースを侵されることが多い都会では他者に開くことよりも、傷つかないために閉じることを常にしているのだろう。
他人と繋がることは痛いことだから。
確かに私も酔っ払いは苦手です。
独自の周波数があり、不快でない酔っ払いは見たことがない。
それはアルコールにより、その人の無意識のいろんな部分があぶり出されるようにエネルギーとして出ちゃってるからです。
なので、普段おとなしい人ほど酔っ払って本音を言って覚えてなかったり…
確かに、めんどくさいのだが、めんどくさいのが人間。
もう一度ドアが開いて、そのおじさんは起き上がって電車に乗って来た。
大したことは無かったようでよかったです。
話はそれましたが、何かを見た時、聞いた時、人から何かを言われた時に湧き上がってくる自分の感情にこそ自分の意識が隠れています。
それらに気づいた時にこそ、自分のエゴ、内側の悲しみ、寂しさ、孤独を感じてあげたいものです。
人を癒したいと思う人は自分が癒されたいということを肝に銘じて…
人の役に立ちたいと思うのであれば、人の喜ぶ顔がみたいのですが、それをどんな意識でしたいと思っているのかに気づいてないと、「私はこれだけやってあげてるのに」などという本末転倒な気分を自分が感じることとなるでしょう。
世間では「福山ロス」です。福山くんもやっと結婚できてよかったね~と素直にお祝いできた幸せな女神たちは少ないと思いますが、人が幸せを選択したことを一緒に喜んであげれたら幸せですよね。
自分の感情を自分で見てあげれること、大切です。
エネルギー、それは出そうと思わなくてもすでにダダ漏れ状態で人様に見られてる、感じ取られちゃってるもの。
自分自身がどんな気持ちで人とお話をしてるか、意識的になってみるといい。
好きな人と話すとき、
苦手な人と話すとき、
嫌いな人と話すとき、
エネルギーは全く違うはずです。
縁あってこの70億人の人類で出逢っているのなら、自分の小さなエゴによりせっかく出逢った目の前の人に投影をしてドンパチするのをやめませんか?
厳密には蝶々が薄い羽根をバタつかせること、そんな些細な風にも私たちは影響を受けているのです。
ただ、感じ取れないだけ。
自分の感情の全てに責任を引き受けること、それが新しい水瓶座の時代の生き方です。