父の葬儀の次の日、親戚が家に来てくれて、少し明るい話もした。


Tの写真を見せると、叔父と従兄弟は即答で「OK!」と言った。育ちの良さと頭の良さが滲み出ていたのだろう。



その日、私はお世話になった病院に、お礼に行った。

しっかりと父親を送り出せた、その思いが私の気持ちをなんとか保ってくれていた。



その病院は、彼の大学の横にあったので、ついで、というわけではないが、少し彼に会うことにした。


葬式の次の日だ。デートする気など普通は起こらない。だが、不思議と父の死の実感がまだないからか、意外と私は元気だった。空元気かもしれないが、空元気を出せるほどには元気だった。


彼は、病院の入り口まで迎えに来てくれた。なぜか、中高時代の友達も連れてきたのだが、その友達はすぐに帰っていった。


復縁してから会うのは初めて。


「また付き合ってくれてありがとう」


「ん、ありがとう。大変やったな。」


彼は、ガラス細工を触るように私に接した。すごく慎重に言葉を選んでいるように見えた。


ただ、彼と話していると私の心はとても軽くなった。京大のキャンパスを手を繋いで歩いたのは夢のような時間だった。お気に入りのサングラスをかけてみた時に「パリにかぶれたのか」と言われた時は思わずしばいてしまったが。


いろんな感情が混ざった、不思議なデートだったが、すごく楽しかった。

Tと復縁して10日も経たないうちに、父が亡くなった。


私はアメリカにいた。

最期を看取れなかった。


父のそばを離れてアメリカに戻ってきたことを酷く後悔した。2月、医師が、「お父さんはきっと、学校に戻ってやるべきことをやれ、って思ってるよ」とアドバイスをくれたし、なによりも私の将来のことを考えてくれる父はきっとそう思うだろうと私も思ったが、父親よりも勉強を優先したのか、という自責の念にかられた。未だに、「父よりも優先したんだから勉強しっかりしないと」という思いは私の中に強くある。



訃報を聞いて日本にすぐに戻り、父と対面した。

父に触れられなくなるまで2日もなかった。

私は、離れていた時間を埋めるように、ずっと手を握っていた。冷たいはずの父の手は、少し温かさを持ち始めた。



お別れまでの時間は、短くて、でも長くて、残酷だった。二度と抱きしめられないのか。時間が止まってほしい。その反面、最後の別れだけを待つこの地獄のような時間が早く過ぎ去ればいいのに、とも思った。


父の想い、願い、思い出はずっと残る。それは知っていた。でも、物理的に触れられない、肌に触れられない、手を繋げないというのはなによりも辛かった。私はパパっ子だった。大学生になっても、ハグもしたし、手も繋いだ。それだけに、本当に本当に辛かった。


父の死を経て、私は死生観、というものを少し持った気がしている。


そして、大事な人を大事にできるうちに大事にすること、手をつなげるうちに存分に手をつなぐこと、愛せるうちに精一杯愛せることがいかに大切か、痛いほど、学んだ。




3/16 (日本時間)。


約束の時間きっかりに、Tからライン電話がかかってきた。


「もしもし。」


あの声だ。大好きな声。

中学・高校時代、彼のことが好きだった頃、好きなところはいっぱいあったが、その中でも「声」は常に上位にランクインする要素であった。

私はドキドキが止まらなかった。



正直、緊張しすぎて、でも嬉しすぎて、何を話したかはイマイチ覚えていない。

しかし、


「信じてもいいんだな?」


というのは何回も聞かれた。


高校の時、裏切るような行為をしてしまったことを踏まえ、私が書いた、反省文のようなラインの内容を信じてもいいのかどうか。そりゃ悩むよな、と正直思った。あんなにひどい別れ方をされたら。


しかし、私は根拠のない自信があった。今の私なら今の彼を大事にできる。そういう気がした。


「うん。」


「ん。じゃあ。」


そうして、私たちは復縁した。「第2章」が始まったのだ。第3章はないと約束しながら。


遠距離の状態で始まる遠距離恋愛もなかなか無いな、と思いながらも、なんとか乗り切れる気がした。



私たちは30分ほど電話で喋った。


私は、父が危篤であることを打ち明けた。すると彼は、「ん、、大変みたいやな」と言った。私の名前をネットで検索したときに出てくるエッセイコンテストの作品で、私は父親のことを書いていたのだが、彼はそれを読んでいたのである。


2週間、病院に寝泊まりした時に感じた医師の情熱や凄さを医学部の彼に伝え、医者になることも含めて改めて尊敬する、と伝えたら彼は少し照れていた。



高校で別れた日からちょうど2年後。

彼が巧みに時間をコントロールし、ぴったり合わせたちょうど2年後の同じ日、316日に、私たちは遠距離恋愛を開始した。