つづきです★
私が ヨウコの過去を よく知らないことも,登校しやすい 環境に 思えたのだろう。
その日から,ときどき 休みながらも 登校するように なった。
休んだ日には,その日あったことを手紙にしたためて
近くの子に届けてもらい,コミュニケーションを図った。
あとで 母親から,こんな話を 聞いた。
「先生は,サッカーも ドッジボールも かけっこも苦手です。
みんなに 負けちゃうかも しれないなあ。
でも,遊ぶのは 大好きなので 休み時間には 一緒に 遊ぼうね。」
という私の言葉を ヨウコは うれしそうに 繰り返していた ということだ。
私たちにとっては当たり前の,『上手にできなくても 楽しい』
という考え方は,完璧主義のヨウコにとっては 新鮮なものだったらしい。
私の任期は 6月初めまでだった。
(臨時の講師でした)
以後は,育児休暇から 戻ってくる 正式な担任に クラスを 渡すことになっていた。
しかし,5月の中旬くらいから,ヨウコの表情が 少し曇るときがあり 気にかかった。
養護教諭は,
「ヨウコは 少し がんばりすぎて,疲れている時期 なのかも しれない。
少し様子を見ましょう。」
と 励ましてくれたが,私は焦っていた。
お母さんと面談をしたときは、
「カウンセラーの先生や お医者さんいは、止められているけれど、
ヨウコに 甘いものを 与えるのを やめられない…
家庭内の状態は、少しずつ よくなっているけれども…」
と 言葉を濁していた。
お母さんの不安定さも 気にかかった。
もうじき担任が 戻ってくる。
その前に また不登校に 戻ってしまったらどうしよう。
そんな気持ちを見透かすかのように,彼女の状態は 徐々に 悪くなっていった。
5月の終わりには,家から送ってきてもらっても 車から 降りることができなくなってしまった。
その頃、母親の焦りは,私以上のものだった。
不登校などは,一進一退を 繰り返すのが 普通であるが,
再び 状況が 悪くなるとき フィードバックが おきる。
以前の 先が見えない状態に逆戻りしてしまうのではないか
という 不安がよぎると同時に,思い出すことで
当時の 苦しみまでもが よみがえってきて しまうのだ。
二重のつらさが,事態を 一層 悪化させた。
6月が過ぎ,私が 学校を離れる日にも ヨウコは 登校して 来られなかった。
数日後,ヨウコから 手紙が 届いた。
「先生,インド行くんですか?
インド行ったら,あついからまっ黒だね。…」
(当時一人旅に行きたいと言っていたので、そのことを 手紙に書いてきてくれました)
なんとも のんきな手紙だった。
ヨウコは,いまだに 学校に 行けないでいるらしい。
でも,今は 常に母親と 一緒にいなくても 平気になってきたようだ。
洗濯物に 包まって 泣くこともないという。
少しずつ 自分を守ってくれる存在に気づき,
母親とのきずなを 深めていっているからかもしれない。
出口のないトンネルはない。
いつの日か,ヨウコと また会える日が来ると いいなと思う