ボルダリングメンタル~間違った自己肯定感。自己肯定の落とし穴。その1



人と比べる、嫉妬する、自分を褒められない、自己肯定できない、親のせいにしてしまう、心も体も病気になってしまう、その解決方法。



いつも書いてる、このボルダリングメンタルシリーズは、前もってお伝えしておきますが、

80%自分の記録のためにいつも書いております😅未来の自分のために😅

残りの20%で、皆さんにお伝えして、受け取ってもらえるものがあればいいな、という思いです。


ブログという形で、人にわかるように伝えようと思って書いた方が、言語化して落とし込むことができるし、10年後見返したときに、私もより思い出せるんです。


なので、皆さんにとって、意味のわからない表現もあるこもと、了承の上、読んでくれたらありがたいです😃



山下先生のメンタルケアを勉強して、少しずつ、自分の心の軸が見えてきました。

心の軸も体の軸も、全ては同じところに行き着つくこともわかりました。


はじめ、私は

心も体も、ブレない軸がいいと思ってました。

 

ブレん方がいいに決まってるじゃん!って。


違うんです!


ブレてもいいんです!


ブレてもまた元に戻れることが大事。

「しなやかさ」

が大切なんです。


だから、私は、

たくさん苦しむけど、

たくさん楽しむけど、

また、元に戻れる。


私が苦しんでると、毎日楽しみなよ!とよく言われます。

アドバイスくれるのはありがたいです。


しかし、毎日楽しむ、では、やはり、結果楽しめないことに悩む。毎日お祭りだと、もっと楽しいをもっともっと楽しいをってなる。毎日楽しい、楽しい、たのしい、たのし、たの、た、た、、、なんだか楽しいのどう?ってなる。


苦しいから楽しいが、わかるし、

楽しいから苦しいが、わかる。



だから、心の軸は、何かと言えば

「平常」

なんです。

平常があるから、楽しい、苦しい、があって、

また、平常に戻れる。そのしなやかさが大切。


「毎日楽しむ」が大切ではないのです。


振り幅は、人それぞれだと思います。

振り子みたいに

大きく「苦しい」に振れる人は、大きく「楽しい」にも振れるでしょうね。

小さく「苦しい」に振れる人は、まあ、それなりに小さく「楽しい」に振れるのでしょうね。




ものの考え方も同じ。

考え方の軸がぶれていると、元に戻れないから、言ってることに矛盾が生じてくる。


毎日楽しい、を軸にしてると、

戻れないから、ものの考え方の軸もブレる。



つまり、物事をよく咀嚼して、消化してないと、そうなってしまう。言ってしまえば、うわべの理解ですよね。


まさしく、ものの考え方も体の仕組みと全く同じです。

食べのものをきちんと咀嚼して、消化、排泄させる。

それをしないと、上滑りして、栄養吸収しないで、排泄されてしまうのと同じ。


一歳のちとちゃんによくある、枝豆、噛まずに粒のまんまウンチしとるー!

ってやつです。



たとえば、これもひとつ。


自己肯定


「自分は大切な存在で、周囲から必要とされている」というように、自分の価値や存在を肯定的に受けとめること。


という意味らしいです。


自分のいいところも、悪いところもぜーんぶ認めて受け入れて、価値ある存在だと思うこと。


だそうです。


この意味で、ああ、そっかそっか!そのままの自分でいいんだ!

と丸呑みしてしまうと、ちとちゃんの枝豆ウンチになってしまう。


そして、自己肯定することに軸をおいてしまう。

毎日、自己肯定。上の毎日楽しいと同じ。


だから、軸は自己否定と自己肯定の間なんです。


自己否定ー軸ー自己肯定




まず、自己肯定って言葉がキラキラしすぎてる!

キラキラしてて、まぶしくて、

私ってみんなから愛されてる~、感とか、

私ってめっちゃ自分のこと好き~感

出まくりにみえます。



そして、この言葉の雰囲気というか?オーラ?というか、もし、この言葉が服だとして、自分に着せてみる。


ん?ん?なんか、変?

私が「ゴージャスな」ドレス服着てるみたいじゃん!って、

似合わんのですよ!似合う、似合わないというより、素敵でない。


つまり、そんな、「自己肯定」できんのですよ!


いいところも悪いところも、ぜーんぶ認めて自分好き!


わかるよ、わかる。私も自分のこと嫌いじゃないから、今、生きとるわ。


でも、でも、嫌いなとこ、認められる?いつまでたっても、どこまで行っても、嫌いのまんまなのよ。認めなれないよ!


だから、自己肯定感、私にはないよ。


ってなる。


たとえば、人と比べる私、これ、嫌いです。


こんな人比べるのが嫌いな私を、好きになって自己肯定してしよう!


頑張って、人と比べる私を受け入れて、キラキラなドレスを着てみる、他人から見たら、

尾川さん、キラキラしたドレスきて、素敵~自己肯定感バンバンあって、素敵~って思われても、



中身は、ボロ切れの尾川さんなんです。人と比べる私嫌いっていう自己否定ボロ切れ。


どう頑張っても、頑張っても、嫌いなところの自分を好きになれないのですよ。


これって、偽りの自己肯定じゃない⁉️


自己肯定してるつもり。自己肯定してるというキラキラがつけたいだけ。


そして、この偽りのもっとキラキラしたドレスを着てる人たちがたくさんいることにも気がつきました。はいでしまえば、その人も自己否定のボロ切れを中に着てるんです。


当たり前ですが、

そのキラキラしたドレスを着て、見せびらかしに私の目の前に来たりします。

そりゃ、自慢のドレスですから。

もちろん、イライラしてしまう自分がいたりします。だって、

ドレスを着た人が羨ましい。羨ましくて羨ましくてたまらなかった。

この人、自己肯定できてキラキラしていいなぁって。


でも、今は違います‼️


メンタルケアしていくうちに、

その人たちが着ているのはオートクチュールのドレスかと思っていたのに、

よく見たら、プラスチックの宝石とかメッキの飾りとかギラギラつけたウォッシャブルドレスだったって気づいたんです。



つまり、同じドレスでも、価値が違う。

私が理解した自己肯定とその人が理解した自己肯定が違う。

その言葉の意味というか?オーラというか?エネルギーが、違うんだ!って。


じゃあ、私が理解した自己肯定というドレスってなんなのか?


ボロ切れのままがそのままの自分だから、自己肯定でないの?と思われるかもですが、

ボロ切れのままでは、尾川とも子はダメだあって、自己否定なんです。どこまでいっても自己否定なんです。そりゃ、舞踏会があるとして、ボロ切れなんか絶対嫌ですよ。

舞踏会なのにボロ切れの自分。どこまでいっても自己否定入りますよね。

舞踏会なのに、ボロ切れの自分、自己肯定します!って人は、もう、エゴイストの極みKYの極みで、逆に、飛び抜けすぎて、尊敬します。



では、私が理解した自己肯定のドレスは、何かと言えば、


「ボロ切れで作ったオートククチュールドレス。」


これが

私の理解した「自己肯定」


自己否定というボロ切れすら自己肯定というドレスにしてしまう。しかも、素敵に。


ドレスをはいで仕舞えば、裸の私。つまり、素の私、平常の私。

そこに、嘘偽りはない。



はじめに述べたように、意味がわからないかもしれません😅


で、次回から、このボロ切れで作ったオートククチュールドレスの具体的意味を書いていこうと思います。


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