今回の宮崎訪問では、キャンプ視察とともに、もう一つの目的がありました。それは、「病気を診ずして、病人を診よ」と建学の精神を述べた東京慈恵会医科大学の創設者 高木兼寬のゆかりの地を訪れることでした。

 

高木兼寬の半生

 

 高木兼寛は、1849(嘉永2)年、現在の宮崎市高岡町穆佐(むかさ)に生まれています。父喜助は武士でいながら、これは当時の一般的な姿だったようですが、いわば副業として大工の仕事をしていたそうです。一人息子の兼寛は武士の息子として、武芸に励みつつ学問にも優れた才能を見せていました。家業を継ぐことを期待されていたのですが、地元で診療をしていて、地域の信頼を得ていた医師に憧れ、明治維新の前年にあたる1867年、18歳の時に医学を学ぶため鹿児島の医学校に進みました。そこでは鹿児島の蘭方医・石神良策(1821〜1875)の指導を受けます。二年目の1868年に戊辰戦争が起こり、石神は藩医として上洛し、弟子の高木も鳥羽伏見の戦いに薩摩藩小銃九番隊付軍医として従軍したのです。

 

 軍医として戦場に駆り出された彼は、学んでいた漢方の知識と技術では戦傷を受けた兵士に何もできず、情けない想いでいました。ところが、イギリス人医師ウィリアム・ウィリスWilliam Willis (1837〜1894)は麻酔も含め、手際よく最新の外科的な処置を施し、兵士たちに対処しました。その技術と対応する姿勢を目の当たりにした彼は大きな衝撃を受けるのです。彼はウィリスから具体的な処置の技術とともに、英国流の臨床を重んじる思想を学ぶのです。これは、研究に主眼を置くドイツ医学とは全く異なるものでした。この両者の思想の対立は後に多くの日本人、ことに兵士が罹患し死に至る脚気への対応で、統一した見解の出ない延々と続く泥沼の論争に発展していく素地ともなります。

 

 薩摩藩はこの戊辰戦争の経験から西洋医学の導入を図るということで、1869(明治2)年に藩立鹿児島医学校を開設しました。その校長にウィリアム・ウィリス氏を招聘するのですが、この人事には背景があり、それは日本(明治政府)がイギリス医学とドイツ医学のどちらを取るか、という判断の結果生まれたものでした。

 

 1869(明治2)年1月、政府は、福井藩医の子である岩佐純と佐賀藩医の子である相良知安の二人を「医学取調御用掛」に任命しています。二人とも順天堂で学び、さらに長崎でポンペ、ボードウィンに師事したという同じ学歴を持っています。「医学取調御用掛」の任務は医学校兼病院の管理運営と、医学制度改革です。岩佐が主として病院を、相良が主として医学校を担当することになりました。

 

 東京の医学校兼病院では英国人であるウィリアム・ウィリスが教育と治療を行っていました。ウィリスは、戊辰戦争で医師として大きな貢献をはたし、政府首脳と強い結びつきを持っており、これからの医学はイギリス医学が導入されることが大方の予想であったのです。

 

 しかし相良知安はこれに異義を唱え、自分たちが学んできたオランダ医学が基本的にドイツ医学の翻訳であり、当時はドイツ医学が最も優れているというのがその主張の根拠となっていました。実習を重視する英米医学に対して、ドイツ医学は学究的性格が強く、日本の士族の教養文化に親和的であったことも背景にはあるとも言われています。

 

 相良は、当時大学南校(東京大学の法・理・文3学部の前身)の教員であり明治政府の政治顧問でもあるグイド・フルベッキGuido Herman Fridolin Verbeck(1830~1898)に相談します。オランダ系アメリカ人のフルベッキは、1859(安政6)年に来日以来、長崎や佐賀で10年間英語、政治、経済、理学などを教えていました。教え子には大隈重信、副島種臣、江藤新平、大木喬任、伊藤博文、大久保利通、といったそうそうたるメンバーが含まれています。彼らの育成に関わり、大きな影響力を持つフルベッキはドイツ医学が優れていると進言し、その結果、ドイツ医学採用案は、大隈重信、副島種臣らに理解され、1869(明治2)年8月政府はドイツ医学導入を決めました。

 

 それでも、明治政府へ大きな貢献を残しているウィリスに粗雑な待遇はできないということで、相良は西郷隆盛に協力を依頼し、西郷は大久保利通らと相談してウィリスを鹿児島に迎え鹿児島医学校を発足させることになったというのです。

 

 高木兼寬は藩主からの奨学金も受け取り、この鹿児島医学校の第一期学生となります。優秀な学生は教員助手として使われる制度があり、彼もこの教員助手となっていました。

 

 1872(明治5) 年4月、彼は師でありすでに海軍軍医寮(のちの海軍医務局)の管理者の一人となっていた石神に勧誘され、上京して海軍軍医となります。同年6月、高木は石神の媒酌のもと、長州人で福澤諭吉と親しく西周を門下生に持つ蘭・英学者の瀬脇寿人(せわきよしと)(本名:手塚律蔵)(1823〜1878)の長女、富と結婚しています。

 

 記念碑にも書かれているように、彼が東京慈恵会医科大学の建学に際し「病気を診ずして、病人を診よ」という教えを伝えたことは有名ですが、ちょうど同じ時期にカナダでも、とてもよく似た言葉を残した先達がいます。それはウイリアム・オスラー William Osler(1849~1919)です。二人は同い年です。そして、こんな言葉があります。

 

 The good doctor to treat the disease, the best doctor to treat a patient with the disease.

 良き医師は病気を治療し、最良の医師は病気を持つ患者を治療する。

 

 遠く離れたヨーロッパでは、彼らより少し先輩のフローレンス・ナイチンゲールFlorence Nightingale(1820~1910)が活躍しています。同時代人として、探せばあることなのかもしれませんが、やはり時代がすごく動いていたのでしょう。そこで、未来が見えた先人たちがいた、それを知っただけで嬉しくなっています。

 

高木兼寬の生地 穆佐(むかさ)城跡

 

 こんなとんでもない歴史の転換期に大きな存在感を感じさせるこの高木兼寬の生地は、宮崎県の県南中央部、宮崎市中心部の西にある穆佐城跡の中にありました。東側には大淀川が流れる標高約60mの低い丘陵にあります。地理的には佐土原から都城を経て薩摩へ向かう薩摩街道にあたる要衝となります。

 

 城跡の中に、東京慈恵会医科大学理事長が同窓会の協力の下、高木兼寛先生生誕の地として「穆園(ぼくえん)ひろば」を整えたという説明がありました。そして、高木の銅像と記念碑が作られています。

 

 

 尊敬する高木兼寬の銅像をバックに、珍しい自撮り写真です。

 

 穆佐城跡は戦国時代には伊東氏と島津氏が争奪を繰り返した城跡ですが、1587(天正15)年に豊臣秀吉が大軍を派遣して島津氏を下し九州を制圧した後、伊東氏に飫肥、島津氏に佐土原と諸県郡を与えたのです。そのため、穆佐城は島津氏の支配となりました。しかし、1615(慶長20)年の一国一城令により廃城となっています。そして、2002(平成14)年3月、城跡は国の史跡に指定されました。

 

 ちょうど散策をしているとき、地元の親父さんと出会いました。数年前まで正式にこの城跡の管理を任されていたそうですが、後期高齢者となり、今はボランティアで作業を継続しているそうです。ご自分の後任を正式に置いてくれないことに、行政に対して多少意見をお持ちのようでした。しばらくお話をして、わざわざ城跡を見るガイダンス施設にまで案内していただき、穆佐城の縄張りが4つの郭群から構成されていること、各郭群は堀切によって区画されていることを教えていただきました。そこから一人で城内の一番高い郭群に歩いて登り、全貌を眺めることができました。

 

 南北朝時代から戦国時代にかけて繰り返された南九州の争乱、そして、統一に向かう波乱の歴史の中で、重要な役割を果たしたであろう城跡の空気には重いけれど清々しい独特の匂いがあるように感じました。

 

高木兼寬のその後

 

 さて、高木兼寬ですが、彼は1872(明治5)年、24歳で海軍軍医となります。その後、勧めがあり、1875(明治8)年ロンドンのセント・トーマス病院医学校に留学し、優秀な成績で修了し、1880(明治13)年11月に帰国しました。留学先のセント・トーマス病院には1860年に有名なナイチンゲールFlorence Nightingale(1820〜1910)が開設した看護婦養成施設(ナイチンゲール看護婦学校)がありました。この養成施設での教育と病棟での看護実践に、ナイチンゲールの教えが浸透していることに彼は大きな感銘を受けます。そして、帰国後、日本で最初の看護婦教育所を開設することになるのです。

 

 ロンドンから帰国した彼は、再び軍医としての仕事を再開します。留学前に高輪の海軍病院で脚気患者が驚くほど多いことに気付いていましたから、帰国後すぐに脚気の問題に取り組み始めます。

 

 日本海軍では約3割の軍人が脚気にかかっているというのに、英国海軍に脚気患者は一人も出ていません。この事実から、彼は両者の食事の違いに注目し、「脚気は炭水化物をとりすぎ、たんぱく質が不足することから起こる」という仮説を立てるのです。

 

 1883(明治16)年、ある出来事が起こります。ニュージーランドを経由して南米の練習航海に出た練習艦「龍驤(りゅうじょう)」の乗組員376名のうち169名(45%)に重症の脚気患者が出て、うち25名が死亡しました。ところが帰国の途中で寄港したホノルルで、これまでの食料を廃棄しパン食にして肉や野菜を与えたら、患者は全員回復したと聞きます。この事実は彼の仮説を裏付けるものとなります。明治天皇(1852~1912)は西南戦争中の1877(明治10)年6月に「脚気」を発症されていますが、彼はその明治天皇に兵食の改善を奏上する機会を得ることになります。彼の奏上により、兵食改良に関する案件は承認され、食費は全額食糧支給の経費にあてられることになります。実験航海への基盤が整ったことになります。

 

 1884(明治17)年2月、「龍驤」に続いて「筑波」が練習航海に出航しますが、そこで彼は自説の実証のため、理想とする食材を満載し、「龍驤」と同じコースをたどらせる兵食実験を組み込みます。そして同年9月、ハワイより「ビヤウシヤ イチニンモナシ アンシンアレ」の打電を受け、彼の実験は成功しました。ただし、主食のパンを受け入れない者が多かったことから、パンの材料になりたんぱく質も多い麦と、米を半分ずつ混ぜた麦飯を導入しました。結果はむしろパンよりも良好で、1年後には海軍から脚気患者がいなくなるのです。

 

 しかし、この「脚気栄養説」は多方面から痛烈な批判を浴びます。ことに当時最先端であった細菌学の観点からは「脚気伝染病説」が提出されるのです。1885(明治18)年4月に東京帝国大学衛生学教授・緒方正規は脚気菌を発見したと官報に報告しているのです。

 

 また、陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)も「脚気栄養説」に批判を浴びせ、「脚気伝染病説」に立って、陸軍では従来通りの米食中心の食事を変えることはありませんでした。むしろ麦飯が有効とする説が広まると、対抗するようにますます細菌説に固執したとも言えます。当時の陸軍は、地方からの兵士の招聘に白米が食べられることを売りにしていたこともあり、一日に白米六合で、副食が乏しい兵食は、皮肉にも脚気のリスクが極めて高かったのです。当時の医学界の重鎮たちが、病理の探求、つまり研究を重視するコッホなどのドイツ医学の影響を受けていたことも大いに関連していたと推察されます。

 

 これが、高木 対 森、海軍 対 陸軍、英国派(疫学) 対 ドイツ派(学理)、さらには非帝大 対 帝大と対比して語られる、脚気をきっかけとしての論争が本格的に始まるのです。しかし、日清・日露という2つの戦争を経験し、その論争は終結することになります。

 

 日清戦争(1894~1895)では4000人以上、それから10年後の日露戦争(1904~1905)では2万7000人以上の陸軍兵士が脚気で死亡しました。一方、兼寛によって麦飯を導入した海軍では、兵士の脚気による死亡は日清戦争でゼロ、日露戦争ではわずか3人であったと言われています。海軍の兵員数が陸軍より少ないのは事実としても、その差は歴然としています。

 

 今日では脚気はビタミンB1の不足が原因ということが判明していますから、彼の仮説は全面的に正しいわけではありませんが、肉類などたんぱく質の多いものにはビタミンB1も多いことから、結果として脚気の予防につながったのは事実です。エイクマンらによる抗脚気ビタミンの発見より15年も早く、脚気の原因は食事にあると仮説を立て、それを実証して見せ、現実に多くの兵士を救った業績は素晴らしいものです。それは海外でも高く評価され、のちに彼は「ビタミンの父」と呼ばれることにもなるのです。

 

 この功績により、1891(明治24)年に勲二等瑞宝章を叙勲、その後政界にも進出し1905(明治38) 年には男爵を賜り華族に列せられます。功績と絡めて「麦飯男爵」と呼ばれたりするのですが、信愛を込めてそう呼ぶ者がいる一方で、脚気伝染病説の立場の人達からは揶揄も込められていたことは想像できます。

 

 ちなみに、文筆家としての名声の高い森鴎外ですが、彼が残した遺言はさまざまな憶測を呼ぶ不思議な文言から始まっています。彼は肺結核のため1922(大正11)年7月9日に満60歳で亡くなっています。

 

 「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」から遺言は書き出されているのです。その指示に従い、墓石には「鷗外」の号はもとより、生前の階級、位階、勲等などは一切触れられておらず、「森林太郎ノ墓」とのみ刻まれているのです。作家としての大きな名声とは別に、医師、また、陸軍を率いる軍医として、内心思うところがあったのではないかと私は勝手に推察をしています。

 

 ともかく、長くなりましたが、一人で訪れた高木兼寬の生地では、大きな感慨を持つことになりました。人の一生が、外的な要因に大きく左右される一方で、自らの信念を守ることの意味も考えさせられる機会となりました。残された時間がどんどん短くなっていることを自覚する私ですが、時間を作り、また、訪れたいと思っています。