自分自身の認識 | ヒヤシンスの水栽培容器の開発者物語

ヒヤシンスの水栽培容器の開発者物語

なんでヒヤシンスの水栽培容器なのか?
そこから産まれる心の成長を伝えます。

世の中は、無情だと思いますか?

無情と思う人は、心が広く、感受性がある方が思われることですよね。

心が狭く、視野も狭く、人間性のキャパの少ない方は、
世の中の無情を作り出している人たちなのではないのかなと思います。


心が広く、豊かな感性を持つ人と接すると、心が安らぎます。

けど。
心が狭く、視野も狭く、人間性のキャパの少ない方は、同じタイプの人を求める。

この人たちの良いところは、無情になれているから、他人を必要としない。

無人島で、たった一人でいても、生きていける遺伝子配列をもっているらしいです。

無情になる人と、無情になれない人。どっちも個性とすればよいのでしょうか。


世界には、明日食べる物も無い人達がいる反面、
ダイエットと言って食事を残す人達もいます。

反対側のグループの事は見ようとしなければ見えませんし、
関係もありませんし、影響もありません。

つまり、「人は自分の周囲に環境、自分が属している境遇がその人の世界、
と言える」のではないでしょうか

そして、1つ1つのその小さなグループの集まりが社会全体なのです。
ですから、自分が属する最小単位の社会、
これを良くしようと働きかける事が自分の人生設計にもなります。

これに最も大きな役割を果たすのは自分自身の認識です。

何をどう受取るかが変われば当然その後の判断、行動も変わります。
この最初の「何をどう受取るか」が変わっていないのに判断と行動を変えようとしてもそれは大変です。
しかし「何をどう受取るか」が変われば自動的にその後の判断、行動が変わるものです。


一人一人の心が根底から変われば今ある世の中等何の意味もありません。


「大海も一滴の水が無ければあり得ない」と言われる様に、
あらゆるものが極少の何かの集まりという状態で成立しています。

「森」は「木」が沢山集まった状態を意味する形容詞と言えます。
「木」は確固たる存在ですが、「森」は存在ではなく「木」が集まった”状態”、つまり現象です。
”存在”と”現象”は全く異なります。

私達一人一人はこの「木」であり、世の中は「森」です。
ブナの森、竹の林、松の森、夫々違います。
それは「木」が違うからです。

つまり「世の中とは私達一人一人の思惑、心がけの形である」と言えると思います。


少し視点を変えて、私達一人一人の心の中を見てみます。
私は善を為したいと思っている、しかし様々なプライドや恐れなどが邪魔して中々それができない、
それどころか、プライドや恐れに負けて他人を傷つけてしまう事もある。

これは善か悪か?情か無情か?
「どちらでもない」というのが答えです。
世の中もこれと同じ事です。

感じ方ですべては変わります。