皆既月食をひかえての影響か、週末、なぜか中学生時代に辛かった経験(その時の気持ち、同級生)が浮上してきた。

 

彼にそのときにされたこと、憎んでいる(許せない)ということを泣きながら話した。

 

ひとしきり泣いて、くそーっていう感情を感じきったら

(こういうとき、「いい人」が登場して、人を憎んじゃいけないとか、憎んでいる感情をなかったことにすると、自分が嫌いになったり、あとで気づいてとでてきたり、体調に不調をきたすことがあるので、感じ切ることって本当に大事です。経験談)

 

わたしも誰かに憎まれているのかもなって思って、彼にいった。

 

そうしたら彼は

 

「憎まれているかもしれないけど、助かったなって思っている人もいるよ」

 

といった。

 

現にそういってくれる人もいて、本当にそうだと思った。

 

物事は一面だけじゃないし、絶対もない。

 

とても大事な視点だと思った。

 

 

ここ、最近、とても楽になったことがある。

 

1月20、21日に、東京で小西温子先生生命の樹の使い方講座を受講して、


それから、改めて、何のために独立を考えているのだろうと考えていた。

 

そのプロセスの中で、

 

今の仕事と両立するのも、趣味でやるのもいいし、


セッションの申し込みがあるということが大事なことではない、


申し込みがあるないよりも、


私の気持ちが安らいでいることの方が何より大事だから、


申し込みがなくてもいいって思ったら(やけっぱちでも、諦めでもなく。手放したということになるのかな)、

 

他の人が告知していても、焦ったり、

 

わたしには中々申し込みがないなって、

 

落ち込んだりすることがなくなった、


つまり、外側の情報に振り回されなくなったのだ。

 

 

たぶんね、セッションの申し込み=認められている、自分には価値がある


と、申し込みがあるかどうかで私の価値を測っていたんだと思う。

 

 

受け取りの生命の樹22日間ワークのほしい感情は「私は私でいていいという安心感」にした。

 

これまでに氣づいたことは、

 

何かしたから安心というのではなく、何かがあったから安心というのではなく、

 

自分が望んでいること、


たとえば、


お風呂でゆっくりとくつろいでいたり、


どんなわたしでも、「それでいいよ」と優しく声をかけて、そうだよねーって思えたときに、

 

安心感を感じていたということ。

 

 

自分に浮上してきた思いや感情を、「あーそうなんだね」って共にいてあげたり(ゆるす、許可する、オッケーを出す)、

 

目の前に現れた人に対して、はっ?!とか、なにそれ、なんでって思ったときに、

 

「いいよ、いいよ、そういうときあるよね」「あなたはそうなんだよね」

 

ってゆるしたら(あえて、ゆるすと表現。他に認める、許可する)、


自分がゆるされた感じがして、

 

自分の心の中に平和を感じた。

 

とても不思議な感覚だった。

 

セッションの申し込みがあって、誰かの役に立つことも、世界平和に貢献することになると思うけど、

 

わたしの心の中を平和にしておくことも、

 

とてつもない貢献だと思った。