悲しみ。 | 加藤なほ 「"毒親育ち" からの人生改革」

加藤なほ 「"毒親育ち" からの人生改革」

毒親育ち、アダルトチルドレン、恋愛依存(DV)などの実体験を元に、"わたし" を生きる方法を伝えています。
▶︎セッション実績…2013年〜 5000件以上
▶︎メディア…NHK(クローズアップ現代+/あさイチ他)/朝日新聞/他多数。
▶︎著書「ワタシの母は毒親でした。」

 
 
はじめましての方へ

 

母を殺すか自分が死ぬか まで追い込まれたアラサーOL「毒親から解放されて自分らしく生きたい…」と書き始めたブログへようこそニコ

「幸せになるために」

 

”毒親育ち” "アダルトチルドレン" と自覚し、自分と向き合うことで

・自分を好きになれた

・「生まれてきてよかった」と思えた

・殺したいほど憎かった母親との関係も改善

という、夢のような現実を手にすることができました。

 

自身の経験、および学んできたことを生かし、

・自分を好きになる方法

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他業界で活躍している 
"推し" の方がいるのだけど、
 
その人が最近の自死のニュースについて
「頭にこびりついている」
というような出だしで
自分の気持ちをシェアしていた。
 
 
 
それを読んだわたしは少し心が楽になった。
 
 
 
心がなぜ楽になったのか
については後々書くことにして、
 
楽になったと同時に、
「この人が何を感じてるのか、
わたしは知りたかったんだろうな」
とも思った。
 
 
 
その推しは、
過去いろんな経験をしているけれど
今はいわゆる "成功" をしていて、
(わたしが関わったことのない業界なのだけど)
 
成功するまでのストーリーを
YouTubeで見ていたこともあり、
わたしから見ると
"今のその推しは" 
メンタルが強くなったように感じていたし、
 
インスタのストーリーを見る限り
友人と楽しそうに過ごしてもいたから、
 
何も感じていない
もしくは
このようなことについては
書くことを控える という選択をとっているのかな?
 
なんて思ってた。
 
 
 
でも違ってたみたい。
 
 
 
この人もいろいろ感じていたんだな
と少し安心したと同時に、
書いてくれたことへの感謝がわいた。
 
 
 
感謝の理由は、
冒頭に書いたように
わたしの心がこのとき少し楽になったのを
わたし自身が感じられたから。
 
 
 
ここに気づけていなければ、
わたしはもやもやとした気持ちに
しばらく先も苛まれていたと思う。
 

 

推しのSNS発信により
少し楽になった自分の心に気づいたとき、
 
そのニュースに対して
とてもとてもショックをうけ
とても悲しくなった自分の気持ちを、
 
わたしはどこか
ないことにしようとしてたのかもしれない 
 
とやっとこさ気づいた。
 
 
 
いや、多分そうなんだと思う。
 
 
 
なんか、
明るくいようとしてた気がする。
 
やだね、
今となっちゃ
そんな嘘つきな自分がすごいイヤだわ。
 
 
 
現に、この出来事について
 
"誰かに想いを聞いてもらいたい"
というか
"分かち合いたい気持ち" 
なのかもしれないけど、
そのような気持ちは
確かに心の中にあったのに、
 
今日に至るまでわたしは、
友人や誰かと 
"深く" 話すことはしていない。
 
 
 
わたしは誰にも
「ちょっと話してもいい?」
って言えなかったし、言えていない。
 
 
 
「あの人とちょっと話したい」
と頭に浮かんだ人に連絡を取ろうと
文字を打ち始めた親指を
 
昨夜も今朝も
「いや、こんなこと迷惑だわ」
と止めていた。
 
 
 
 
 
 
始めた当初は
気持ちを吐き出す場所としていたこのブログで
 
今こうして親指を動かし出したわけだけど、
(正確に言うと、つぶやきで使っていこうとしてるスレッズで書き出したんだけど、文字数オーバーになったからブログに来たんだけど)
 
"ここまで書いているようなことを
(ブログなどで)書かないほうがいい"
 
ともわたしはしてたんだな とも感じた。
 

 

自分の気持ちをないことにすると
その感情は
「もっとみて!」
「無視すんな」
というかのようにさらに大きくなる。
 
 
 
"ないことにしようとしてたかも"
と推しのシェアで気づけたから、
昨日の夜、お風呂につかったとき
その悲しみをちゃんと感じようって思った。
 
 
 
すぐに涙があふれて止まらなくなって、
それは嗚咽になり
数分間泣き続けたら
涙と鼻水とともに
スッと収まる瞬間がちゃんときた。
 
 
 
散々人に言ってきたけど、
"感情は感じきると消える"
だ。
 
 
 
思っていたよりも反応が大きかった自分をみて
どれだけ悲しい出来事だと感じていたのだろう
と思った。
 
 
 
こんなにもわたしは悲しかったんだ…
ってちょっとびっくりしたもん。
 
 
 
 
 
と同時に、
3年前の7月も今回と同じような
衝撃的なニュースがあり、
(あったよね。あの夏は、セッションでそのニュースを扱うことが何件かあったくらいだった)
 
同じくらいの深い悲しみを感じたことを思い出した。
 
 
 
"とんでもなくファンだった"
というわけじゃないのに
どうしてこんなにももっていかれるのか、
どうしてこんなにも悲しくてたまらないのか
って、
 
あの3年前の夏、
自死に関していろんな文献を読んだり
本を読んだりしていたのだが、
思った以上にもっていかれてしまい、
 
特に寝る前、
いろいろ調べてしまうことが止まらず
より一層悲しくなってしまうわたしをみたある人は
 
「なんでそんなに調べたりするの?
みなきゃいいじゃん。
みるからまた持っていかれるんじゃん」
 
と言った。
 
いや、そうなんだけど。
そうなんだけど、その通りなんだけど、
気になってしまっているときってありません…?
 
 
 
その人にそう言われたとき
なんかわたしは
軽蔑されたように感じちゃったのかな。
 
 
 
"ひっぱられるわたしはダメだ"
って、
ダメ出しされたようにかんじたのかもしれない。
 
 
 
「あなたダメね」
なんて言葉は言われてないから
あくまでそう捉えたのはわたし自身
なのだけど、
 
その人の一言は
わたしにとって
ものすごく大きかったのかもしれない。
 
 
 
「あ、わかってもらえんわ」
と言われた瞬間確かに感じてしまったしね。
 
 
 
相手は相手で
おそらく心配して
 
「そんなにしんどくなるのであれば
見るのをやめたらいいのでは?」
 
と言ったと思うしね。

 

 

それからなのか、
それより前からなのかわからないけれど、
 
どこか、
"ポジティブ とか  前向き がすばらしい"
みたいなのがわたしの中にあるようで、
 
なんだろう、
 
"ひっぱられてしまう"
というか、
"悲しみに浸ってしまう"
というのかな?
 
 
 
"そういう自分はいけない"
みたいなのがあるんだな 
 
と今日感じている。
 
 
 
元々ものすごいネガティブ出身で
だからこのブログが始まり
この仕事をしているのにね。
 
 
 
"いつも明るくいなきゃ" 
"ネガティブはいけない"
みたいなのがわたしの中に
大なり小なりあるということなんだと思う。
 
 
 
そうでないと
"人様に迷惑をかける"
と思ってる。
 
 
 
去年の6月、
本当につらくて、
ふとしたときに
いってしまいそうな自分がいるのを見つけて
怖くてたまらなかったとき、
 
わたしは心のうちを
誰にも明かせなかった。
 
 
 
夫にも、
「最近夜が怖い」
くらいしか、言えなかった。
 
 
 
だって
"そんなこと聞いたって、
みんなリアクション困るじゃん"
って思ってたから。
 

 

 

"いつも明るくいたい"
 
 
 
そう思っているのは確か。
 
 
 
「会うだけで元気になる!」
とか言われてみたいな〜 
 
って、ずっとずっとそんな人に憧れてたし
今でも憧れる。
 
 
 
"憧れる"
ってことは、
わたしはそういうタイプでも気質でもないことも
どっかでわかっちゃいるけど、
でも憧れちゃう。
 
 
 
そう在りたいと思っているから
わたしはおそらく明るい人が大好きだし、
そんな人といたいとすごく思うし、
実際にいるし🐰🥕、
 
いるととても楽しくて
発見があって
成長があって
感謝があふれるし
やる気が満ちあふれるんよね🐰🥕
 
 
 
でもさ、
"在りたい"
と意識することは
まったく悪くないにしても
それがちょっと傾きすぎるとつらいよね。
 
 
 
"そうあらねばならぬ"
になるときついよね ってこと。
 
 
 
ネガティブに浸る自分に
許可がおりづらくなるし、
行き過ぎると他者へも同じように
ジャッジしてしまう流れとなる。
 
 
 
(人に)明るくない見せてはならない、
明るくない自分を書いちゃいけない 
明るくない人はダメだ
 
って大なり小なりなっちゃうのが人の心。
 
 
 
それってすごく苦しい。
 
 
 
現にわたしは苦しかったんだけど、
それは、
コレがわたしの中にいたからか…
 

 

世界を変えたい!
こんな世の中を変えたい!
 
とか、そんなどでかいことを
今のわたしは思ってないけど、
 
願っているのは
"やさしい世界"
で、
 
その "やさしい" の中身は
"明るさだけを出していこう"
という社会ではないんだよね。
 
 
 
それなのに、
自分自身がしていることは
いやね、すっごくチグハグだったわ。
 
こうしてブログに書いてて気づいたんだけども、
"ノートに書く"
とはやっぱりちがうなブログは。
なんだか別の意味で整理ができるツールだな ってやっぱり思う。
 

 

もっと、
 
 
悲しみを感じる自分
 
悲しみに浸って物事が手につきづらくなる部分を持っている自分
 
いつも明るいわけじゃない自分
 
そんな自分を、自分の場所でシェアする自分
 
 
をやさしく包もう
と、書いてて改めて思った。
 
 
 
そうしたらきっと、
 
もっと、
 
 
悲しみを感じている誰か
 
悲しみに浸って物事が手につきづらくなる誰か
 
いつも明るいわけじゃない誰か
 
そんな自分自身をシェアする誰か
 
 
を受け容れられるとも思う。
 

 

あぁ、
「こんなことをここに書くなんて」
って葛藤しながら書いたけど、
 
少し整理はついたものの、
それでもまだ悲しくて胸が苦しいのが正直な気持ち。
 
 
 
悲しくてたまらないし、
体もここ数日ずっとなんかだるいまま。
 
 
 
仲良しだった方々や身近な人たちは
どんなにつらい気持ちでいるだろうか…
 
 
 
なぜこれほどまでに悲しくなるのか
わからないけれど
わたしも自死遺族であるからだろうか?
 
わたしはいま
とても悲しくてたまらない。