大変危機的な状況に置かれ、わらにもすがるような気持ちになったとき、

大変困ったときに見るよう一休さんが遺した言葉は何だったのか。

“深刻”にならず、“真剣”に生きるというお話です。
“深刻”にとらわれてはいけない

今回はアニメでも親しまれている室町時代を代表する臨済宗大徳寺派の僧侶、

一休宗純禅師のお言葉です。

 一休さんは「この先どうしようもなくなって大変困ったときにこの手紙を開けなさい」という遺言を残し

、亡くなられました。
 それから数年後、お寺が大変大きな危機を迎えます。

一人の僧侶が一休さんの遺した手紙のことを思い出し、

封を開けてみたところ、3つの言葉が書かれていました。

 大丈夫。心配するな。何とかなる。

 あまりに単純なメッセージだったため、僧侶たちはおそらく拍子抜けしたことでしょう。

それでも、この言葉を読んだあと危機的状況を無事に乗り切ることができたそうです。

この話が果たして歴史的事実かどうかは定かではありませんが、

いまでは一休さんのエピソードの1つとして広く知られています。

 すがるような思いで手紙を開けたこの僧侶たちと現在のわたしたちは、

ある意味同じような状況に置かれていると言えるかもしれません。

2020年の初めから現在にかけて、

新型コロナウイルスの感染拡大により未曽有の危機的状況が続き、

近年では自然災害や金融崩壊、経済崩壊に向かっているのではと。この災禍はどうなっていくのかと。

 先が全く見えない危機的状況に長く身を置くと、人間は誰しも不安に陥り、

物事を深刻に捉えるようになります。

そして、事態を深刻に受け止めれば受け止めるほど、周囲が見えなくなってしまい、

自分自身のパフォーマンスが低下していきます。

「深刻に生きる」のと「真剣に生きる」のとでは全く違います。

「深刻に生きる」とは、自分にコントロールできない事や未来の事など

さまざまな雑念にとらわれながら生きることです。

一方、「真剣に生きる」とは、いま目の前の自分にできることに集中して生きることです。

おそらく一休さんは、危機の渦中にある僧侶たちに対して、

「深刻になるな、真剣になれ」という想いを伝えたかったのだと思います。

 大丈夫 心配するな 何とかなる

 この3語を心の中で何度か反芻してみると、

肩がすっと軽くなったような気がします。閉塞した状況が1年以上続く中、

自分ではどうにもできないことをいつの間にか心配し、

心の中が緊張していたためなのかもしれません。

お釈迦さまは『サンユッタ・ニカーヤ』という経典の中で、次のようにおっしゃっています。

 かれら(清浄な者)は過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、

未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている。

それだから、顔色が明朗なのである。

ところが、愚かな人々は、未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、

そのために、萎れているのである。—刈られた緑の葦のように。
(中村元訳『ブッダ神々との対話 サンユッタ・ニカーヤI』岩波文庫)

 みなさんはお釈迦さまのおっしゃる「愚かな人々」になってはいませんか? 

顔色は明朗ですか? 自分がコントロールできないことにあまりとらわれることなく、
現在の状況の中で目の前のできることに集中して日々を過ごしたいものです。

 そして、【氣にしない 氣にしない】という意識が大事だと思います。