身体調整専門気功師イトウのブログ

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東京、長野等で活動中の気功師イトウのブログです。
気功師の観点から見た身体の使い方のコツなどを公開していきます。施術等の告知についてもこちらで行います。

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人間誰しも不要な失敗はしたくないものです。なのでこれでいいのか、もっといい選択肢があるのではないかと立ち往生してしまうことも時にはあると思います。自分や周囲になにか大きな出来事があったり、進学・就職など一つの分岐点に立っていると特にそうだと思います。

ですが、何かを選ぶ際、その選択が最適なものか、正しいのかどうかを気にしすぎないことが大事です。もちろん適当にやればいいという意味ではないことは言わずもがなですが、失敗を恐れるあまりに無限ループに入って身動きがとれなくなってしまうと、時間もエネルギーも大きく浪費してしまいます。
人間万事塞翁が馬という言葉がありますが、その結果が良いものであるどうかは時間が経てば容易に変わります。最悪の失敗だったと思っていたことが、実は劇的に好転するために不可欠なものだったなんていうのはよくあることです。

苫米地博士の書籍を読まれたことのある方はご存知だと思いますが、時間は未来から過去へと流れていくものですので、過去の評価に拘泥することに意味はありません。同様に現在の選択が良いものかどうか必要以上に思い悩むのも不要です。

結果的には最適な答えではなかったとしても、ゴールから考えて今答えを出すことです。そして機能しなくなったら更新する。今ベストな答えだと思ったのであれば、結果がどうあれそれが最良の選択です。

一度止まってしまうとまた動き出すには大きな力が必要になります。動きつつ考えましょう。
技術でも問題の解き方でもそうですが、何度か成功したことがあるというだけで、その技術なり何なりを自分のものに出来たと思い込んでしまうことがあります。ですが「できたことがある」というのと「いつでも使える」の間には大きな隔たりがあります。

なぜ多くの一流と呼ばれる人達が、身体に叩きこむことの重要性を説いているのかといえば、いちいち思考を介しているようでは遅くて、ルーティーンのように無意識にできるようなものにしておかないと、結局役に立たないからです。
何度かできたことがあるというだけで、やる気に左右されるなどうまくいくかどうかにムラがあるような状態では、咄嗟の時にはまず間違いなく使えません。数学の問題の解き方が、いざテストの時になると出てこなくなるのと同じです。

そこそこ高度な技術でも、まぐれ当たりで出来てしまうことはあります。出来た事自体はもちろんいいのですが、それだけで自分のものに出来たという風に勘違いしてしまうと、問題があることを認識しなくなるので上達しなくなります。

アプリケーションとして使うのではなく、OSの機能の一部になるまで使い込みましょう。

”「できないけどやらないだけだ」と自分に言い聞かせている間は、「できない」ということを別の表現で言っているだけにすぎない”
リチャード・P・ファインマン
スポーツにおいては、身体の使い方を少し変えるだけでパフォーマンスが劇的に改善することは多々あります。

例えば野球であれば、特に始めたばかりだとボールを投げる際に腕や肩など上半身にばかり意識が行ってしまい、下半身の動きがおろそかになっている場合が多いです。具体例を挙げると、つま先の向きがおかしい、踏み出す位置が悪く腰の回転が弱い、などです。そこで例えばつま先の向きを指摘して、相手の方にしっかりつま先を向けて投げることを意識して投げてもらうと、それまで全くコントロールが定まらなかった人でも途端に制球の定まった、体重のかかったボールを投げてくるようになります。

短距離走など走ることに関してだと、「足を動かす」事はできていても「地面を踏んで身体を前に蹴りだす」という感覚が薄かったり、足のリーチを活かす動かし方ができていない(腰の位置がわかっていない)、などです。

テニスやサッカーなど他の競技に関しても、おさえているかどうかで結果が明確に変わるポイントがあります。

それぞれの競技でプロまで行けるかどうかはわかりませんが、僕は少なくともある程度のレベルまでは才能は関係なく、パフォーマンスは知識によって改善可能であり、あとはそれを活かそうとするかどうかなのではないかと思います。

闇雲に頑張るだけでなく、youtubeなどで憧れの選手のプレーを何度も見て、身体の使い方に明確な目に見える違いはないか探してみるといいと思います。


【動画紹介】
野球だとおすすめはイチロー選手のこの動画。


呼吸によって体の力を抜く、というのは感覚がつかめるまでなかなかうまく行きづらいかもしれません。
息を吐くときに力を抜くと言われても、そもそも呼吸が浅かったり、意識することによりかえって余計な力が入ってしまって息苦しくなったりなどなど(それでもやらないよりは色々試行錯誤したほうが後々役立ちますが)。

そんな時は、個人的なコツですが息を吸おうと意識するのではなく、匂いを嗅ぐ事に意識を向けるといいかもしれません。食べ物でも森林浴での木々の匂いでも、自分にとって心地よい香りを存分に楽しむようなイメージです。この時、背中側をふくらませるようにしたり、百会(頭のてっぺん)から空気を抜くように意識できればもっと良いです。
改善したいことそのものにフォーカスして力技で行くよりも、周辺から攻めていったほうがうまくいくことは往々にしてあります。呼吸もその一つです。

苫米地博士が書籍で再三呼吸について言及していることからも分かるように、呼吸のコントロールが高度にできるようになると、様々な場面でかなり大きな恩恵があります。
ただ同時にリスキーな部分もあるので、無理をしすぎないようにきっちり基本を抑えることを心がけてください。
バタバタしていたら前回のブログから2ヶ月も経ってしまいました・・・。
こんばんはイトウです。

更新はできませんでしたが、書こうと思っていたネタは結構たまっているので、そろそろ更新を再開していこうかと思います。



さて、今回はスピリチュアルについてです。
僕自身はいわゆるスピリチュアリズムには批判的です。というのも、偏見かもしれませんがスピリチュアルで教えられている内容自体にも、それにハマる人たちにも、”自分の力でどうにかしよう”という意思があまり感じられないからです。

人生を語るにはあまりに未熟であることは承知ですが、僕は人生は人に手を引いてもらうのではなく自力で歩かなければならないと思っていますし、生き方から思想まで周囲の人間(もしくは神などの概念)に言われるがままというのは、いかがなものかと思います。

スピリチュアルによくある、頑張らなくていい、神様が助けてくれるからありのままでいいという考え方は、楽そうですし一見魅力的です。場合によっては余計な力が抜けたり、取り組んでいることにいい結果が出るなんてこともあるでしょう。ですが、地獄への道は善意で舗装されていると言うように、優しさや愛に溢れていれば人のためになるわけではなく、逆に真綿で首を絞めている事も往々にしてあるわけです。

出来る事だけやって後は運任せにしたり、安易な考えに走ったりすれば、自分の能力のなさにがっかりすることも、圧倒的な実力差に絶望することもないでしょう。それでも傷つけば、仕方ない、しょうがないと言っていれば立ち直れるかもしれません。でもそれでどうなるというのでしょうか。

僕がスピリチュアルや、無理をせず、出来る事だけやればいいなどの考え方を子供の頃から好きになれなかったのは、結局何かにすがるように頼っている以上、仮にその時点で直面している問題が解決したとしても、自分の力で、自身の持てる形で問題解決をしたわけではないのですから、根本的な問題の何の解決にもなっていないじゃないかと考えていた事が理由です。

僕自身今よりもっと未熟で、精神的にどん底だった頃に1度、そういった「神様が助けてくれる」系の本を読んでみたことがありますが、心底腹が立って読んだ後に文字通り破り捨てたことがあります。(ハードカバーだったのでなかなか破り応えがありましたw)。今思えばそういう考え方に微塵の魅力も感じなかったからこそ、戻ってくることができたのではないかとも思います。もちろん強力なサポートがあったからこそ出来た事ですが、結局周りがいくら手を貸そうとしようとも、本人に歩く意思がなければ解決は絶対にしないので。

光なんてそのうち見えてくる、誰か(何か)が見せてくれるという態度では、一生見えてこないと思います。戦略として、意図があってdeleyさせているのであれば別ですが、多くの人は単に惰性のような気がします。楽ではあっても無味乾燥なお花畑に生きていくより、誰かに批判されようが嫌われようが自分の意思で何かを決め、自分の力で歩いて行くほうが僕は好きですし、そっちのほうがよっぽど面白いです。

最近気に入っている、宇浦冴香さんのマイミライ
作詞作曲はB'zの稲葉さん。