先日
イギリス生活「決して後回しにするな事案」として
こんな記事を書いた
後回し事案ではないが
心しておくべき事として教えてもらった知恵の中に
こんな事柄があったことを思い出した
「わからなければ
曖昧に返事をするな」
ということ
聞き取れなかったり
理解できないことがあった場合
適当にYesやNoと返事をするな
というアドバイス
一旦そう答えてしまうと
後々ずっとそれを主張される
だから
言われたことがわからなかったら
遠慮しないで納得するまで
質問すればいい
先日
イギリス生活「決して後回しにするな事案」として
こんな記事を書いた
後回し事案ではないが
心しておくべき事として教えてもらった知恵の中に
こんな事柄があったことを思い出した
「わからなければ
曖昧に返事をするな」
ということ
聞き取れなかったり
理解できないことがあった場合
適当にYesやNoと返事をするな
というアドバイス
一旦そう答えてしまうと
後々ずっとそれを主張される
だから
言われたことがわからなかったら
遠慮しないで納得するまで
質問すればいい
日本語の動詞に向き合って
しばらく時間が経つ
専門家ではないので
なかなか進まない
それでも最近
改めて認識したことがある
日本語の動詞と
英語の動詞の違いというより
それぞれの動詞を用いて表現する場合の
文の構成の違いだ
日本語の動詞は
活用という形で
語幹を固定したまま
動詞が変化する
しかし英語は
全く別の言葉を補助的に用いて
変化した状態は
変化の過程のいつなのかを表現する
それは説明したい状態が変化するという意味ではなく
説明したい状態が
時間軸上どの時点のことなのかを
示す方法が違うということ
年表のように帯状に伸びる時間軸表現では
それを認識しずらい
過去と現在と未来が
それぞれ繋がってはいるが
それぞれが遠く
別々の出来事のように点在する感覚になる
しかし
ぐるぐる螺旋状に
バネのような
竜巻のような渦のように
時間が経過すると表現したらどうだろう
バネの一つ一つの輪が
何が起きたのかという変化の状態で
それを説明するとします
そこで
バネを上方向に伸ばした状態を
想像してみてください
状態を横から観察すれば
一つ一つの輪が別々に存在していて
それぞれの状態が孤立している
けれど視点を変えて
上から見たらどうだろう
変化の奇跡をを個別に確認することはできないが
発生から結果は全て
継続していて
前はどうであり
今はどうであるという状態は
繋がっていることがわかる
日本語の動詞の変化は
まさにそんな感覚である
例えば植物の成長のように
枯葉が自らの足元に落ちて堆積し
無くなってしまったようだけれど
土壌の栄養となり成長を助け
どんどん上へ広がっていくような
日本語の動詞は
語幹という根を据えて
時間という空間のどの位置について言及しているのか
分かるようになっている
花壇の水やりのバイトを始めた
去年やったのだけれど
結構きつかった
近くのお店の花壇の水やり
毎日通うって
思いのほかしんどい
でも
お客さんがお花の写真を撮っているのを見かけたり
他ではとっくに花の季節は
終わりを迎えたというのに
その店の花壇の花は
いつまでも美しく咲き続けたりして嬉しかった
だから
今年もやってくれないかとお声がかかった時
迷ったけれど
もう一度だけ引き受けることにした
それにしても
寒かった
昨日の朝はとにかく寒かった
すでに陽は上っていてすっかり明るいのに
スカンジナビアから風が吹いていたのか
とにかく空気が冷たくて
手がかじかんで
枯れた花を摘めないほど寒かった
それでつい
こんなふうに願ってしまった
「雨でも降れば
おやすみできるのに」
ところが今朝
何が起こったと思いますか
目覚ましにしている携帯のアラームが
鳴らなかったんです
幸い携帯は壊れていなかったんですが
充電ケーブルが壊れていたようで
携帯は充電切れ
午前中は大慌てで水やりをしたり
新しいケーブルの購入に走り回る羽目に
バイトを休むという望みは叶わなかったけれど
遅れたことで気温が上がっていて
水やりが苦ではなかった
引き寄せ方を間違えて
予想外の事態を引き寄せたね
日本語環境にいない子どもに
日本語を教えるためにできること
いつか彼らに
日本語を
外国語として学ばせる日が来る予感があるなら
大なり小なり
日本語文法を学び直す覚悟が
必要だと考えます
用語を覚え直す必要はない
(私はそう思う)
けれど
文を品詞ごとに分解できないと
応用が苦手になってしまうだろうと思います
例えば
英語の動詞"study"は
「勉強する」と学ぶけれど
「勉強(する)」と表記されている教材に出会ったときに
「する」がカッコでくくられている理由がわからなかったり
教材が間違っていると勘違いしてしまう可能性もある
「勉強」と「する」が
別扱いになっている理由については
国語でも日本語学習でも
詳しく学ばないので
日本語が母国語である
あなたが理解した上で応用することが
一番自然な形で彼らの助けになるでしょう
先日 家族宛に
「罰金請求もありうる
無視するな」と
表に印刷されている
茶封筒の郵便が届いていた
わざわざ茶封筒を使うなんて
悪質だなと嫌な思いをした
というのも
イギリスでは
税務署や裁判所や
役所からの郵便物は茶封筒と決まっているのだ
だからこうして茶封筒を使い
人々の気を引き
不安を駆り立てて
冷静さを失わせる
悪質な詐欺だと疑って間違いない
イギリスに移住したての頃
「決して後回しにするな事案」の
一つとして教えてもらった
イギリス茶封筒事情
最近SNSで海外生活について
発信される方が多くなった
けれど
そういえば
これについて触れている情報に
出会った覚えがないな
と思ったので書いてみました
ちなみに
家族宛の郵便の内容が
何であったのか知りませんが
役所が表に
「罰金を請求する」と印刷した封筒を使うようなことはない
日本語環境にいない子どもに
日本語を教えるためにできること
いつか彼らに
外国語として日本語を
学ばせる日が来る予感があるなら
日本語話者であるあなたが
国語との違いを知っておく必要がある
どうしてそう
断言できるのか
それはつい昨日
複数の文法について
どの段階で学習するのかAIに質問したところ
「自然に知っていることが前提なので
国語ではあえて詳しく教えない」
との返答を頂戴したから
国語はあくまで国語であって
日本語学習者向けには構成されていない
日本語学習となるとあまりにも広く捉えられていて
本質的な
何をもって日本語というのかが
置き去りにされているような気 がした
英単語をカタカナにして
日本語表現に使用する
今や個人レベルにとどまらず
公的情報にも
その傾向が顕著に反映され
そして加速している
そんな時代に生きていて
ではどうして
ルー大柴さんの
ルー語代表的表現
「トゥゲザーしようぜ」は
長くにわたり受け入れられないのか考えた
結論ではない
単なる個人的考察です
それは
この表現は中途半端だからだ
ということに着地した
トゥゲザーは副詞なので
動詞「する」の活用の「しよう」に使われていることに
問題はないはずと一瞬考えた
でもそうじゃない
そこじゃない
「しようぜ」だけでは
何をするのかが分からないから
不自然になるのだ
トゥゲザーを用いて
「一緒に」と表現したいのだろう
けれど聞き手は無意識のうちに
だから一緒に「何をするのか」
の情報を待ち続けているのだ
名詞を名詞に置き換えることは
簡単だろう
けれど動詞はそうはいかない
日本語の動詞は
奥が深い
先日 動く瞑想について
記事を書いた
それから車を運転するたびに
思うことがある
運転を楽しんでいるわけではない」
という現実
ではどうして
集中しているはずの運転中に
瞑想状態に陥るのだろうか
実際のところ
その答えはわからない
けれど昔から
電車やバスに乗るのが好きだったことを思い返すと
「流れる景色」を
眺めている感覚が異次元的なのだろう
長い時間
青空の雲を眺めることもあるが
雲の形にほとんど変化がなければ
すぐに飽きてしまう
長い時間
海を眺めることもあるが
砂浜でなければ
これもすぐに飽きてしまう
私に向いている動く瞑想の「動く」とは
自身が動くこととではないようだ
「瞑想をしますか」
ジュエリー作家の彼女が
「私にとっての瞑想は
車の運転なんです」
と答えた動画に出会った
生活習慣の変化があって
車を運転することが減った私
ぐんと減って
良いことだと思っていた
けれど
四季を通して味わっていた
早朝の景色の変化は
その瞬間にしか出会えない
地球の呼吸だったし
自然が創り出す傑作ばかりだったので
その時間がなくなってしまったことを
残念だなとも思っていた
同じ道を日中通っても
あの早朝の
秒読みで起きる変化はないからだ
あまり車を運転しなくなって
それは自分にとっていいことだと思っていた
けれど彼女が言うように
車の運転が
私にとっての瞑想の時間だったとするなら
運転をしなくなってしまったから
ブログに何も書けなくなってしまったのかもしれない
街中にある公園を通って
買い物に行った
イースターホリデー中で
子ども連れの家族が多い
何故だか
すれ違う人々から漂う香りが
皆同じであることに驚く
何処かで
洗濯洗剤のセールでもあったのだろうか
何が真実なのかわからないニュース
確かめるすべはない
何を信じるか
試されているようだ
確かだったことは
世界のどこかで
何が起きていようとも
皆に平等に陽が注いでいた