川端康成と三島由紀夫 ,463

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(札幌への帰り、浦河沿岸はひどく波立っていた。)

歳末から年明けまで 一週間ほど、川湯に帰っていた。
その間、いろんなTV番組を見た。

なかでも、特に面白かったのは、川端康成と三島由紀夫、という題名だったという記憶があるが、NHKの番組であった。
再放送だったかもしれない。
二人とも 日本を代表する文豪であるが、二人の作品の多くは、自分は読んでいると思う。

川端康成は、三島由紀夫の 文学上の師匠であり、三島夫婦の媒酌人でもあった。

この師弟が、あることを境に、突然の不仲になる。
原因はノーベル賞である、と 番組ではいうのだが。
ノーベル賞は、特に文学賞は、ある程度 各国の持ち回りであるらしい。
確かに、他の賞と違い、客観的な評価が難しい賞ではある。
ノーベル賞委員会は、今年はアジア、特に日本から、という意向を持ち、日本国内の ごく少数の 著名な評論家や文学者に、密かに選考を依頼する。

このとき、ノーベル文学賞候補として 名が挙がったのは、谷崎潤一郎、西脇順三郎、川端康成、三島由紀夫、の 四氏であったという。
特に 川端、三島の二氏が、有力とされたのである。

この事を知った川端康成は、三島由紀夫を自邸に呼び、

ボクは もうこの先 永くないが、君は まだ若い。
今回は ボクに譲ってくれないか、
と頼んだ。

先輩であり、師匠であり、媒酌人でもあった川端の頼みを、三島は 断れなかったのであろう。
このことを知って 激怒したのは、三島本人よりも むしろ 三島家の人々であったらしい。

1968年、川端は ノーベル文学賞を受賞、作家としての名声を 決定的にした。
一方、三島と川端の関係は、これを境に 急速に疎遠になっていった という。

三島の初期の小説、潮騒、や 金閣寺、は面白いが、最後の大作、豊穣の海・三部作は、春の雪、暁の寺、と段々とつまらなくなり、天人五衰 に至っては、ハッキリ言うと、この作家は 病んでいるのではないか、とさえ思えた。
最後の最後に、主人公・本多 の前で、副主人公・聡子 が 小説の筋そのものを、全否定するに及んで、三島自身をも 否定したかのような 薄気味悪さを 覚えた。
実際、彼は この最終原稿を 出版社に渡した同じ日、1970年11月25日 川端と訣別して二年後、いわゆる三島事件を起こし、割腹自殺するのである。

同様に 川端の小説も、伊豆の踊子、古都、などは瑞々しく面白いが、晩年の小説は、好きになれない。

川端は 長く不眠症に苦しみ、睡眠薬を多用した挙句、朦朧とした日常をおくり、小説が書けなくなり、三島事件のわずか二年後、1972年、ついにガス自殺する。

が、二人とも 日本を代表する 大作家であることに変わりはなく、そうした彼らであっても、名誉欲、と 言っていいかも知れないが、そういう、およそ 人間的な葛藤に 囚われていることに、おなじ人としての業、とでもいったものを、感じないわけには いかないのである。

一方、フランスの実存主義哲学者 サルトルは、ノーベル賞を 拒否したことで知られるが、友人のシュバイツアーは、多額の賞金でも貰っておけば、なにか良き事に 使えただろうに、と嘆いたと伝えられる。

ノーベル賞という好物が 目の前にあれば、誰も手を出さない人はいない。
サルトルのような人は 別として、人間にとって 名誉欲ほど強いものはない。

自分には全く関係ないけれど、そういうものであるらしい。