西尾宗次(にしおむねつぐ)
概要
?年ー1635年
別名 仁左衛門
主君 横田尹松→結城秀康→松平忠直→忠昌→光通
氏族 西尾氏
父母 西尾久右衛門(久作)
兄妹 不明
妻 不明
子 不明
生涯
いつごろかは不明だが、西尾宗次の父久右衛門は遠江の浪人西尾是尊の養子となり西尾氏を継いだとされている。1581年の高天神城の戦いでは、武田軍に属しており、落城時に横田尹松に従って落ち延びている。1593年に結城秀康の家臣となり、1601年に700石と鳥銃頭の役職を与えられた。1615年の大坂夏の陣では松平忠直隊の鉄砲組に属し、真田信繁(幸村)を討ち取った。また、西尾はこの首が誰か分からず原貞胤に教えてもらい徳川家康に届けたともいわれている。そして家康に謁見し徳川秀忠親子と松平忠直に褒美をもらい1800石に加増してもらっている。当時小倉藩主細川忠興の書状には「首は越前殿鉄砲頭取申し候、手負て、草臥れして居られ候を取り、手柄にも成らず候」とあるように拾い首であったともいわれている。家康は宗次が信繁を討ち取ったことを信じず誇張報告したことに激怒したとも伝えられている。戦後宗次は信繁を供養するために福井市にある孝顕寺の境内に首塚を作り、首はさらにまた別の場所に埋葬された。
関連
参考資料
最終更新 2025/06/07