今マイケル・サンデル(ハーバード大学政治哲学教授)の正義論の入門書である『これからの「正義」の話をしよう』が爆発的に売れている。
サンデル教授は8月25日に東京大学の安田講堂で講義をしたが、彼の「ソクラテック・メソッド」、つまり対話型の授業は日本の大学教育改革の黎明をもたらす潜在的可能性を有している。
そんな中、メディアの脚光をサンデル教授ほど浴びてないとはいえ、我々HCAPも「議論」するということはいかなることか、そして議論することにどのようなメリットがあり、更には議論を通してどのようなことが期待できるのかを勉強会で熟考することが多い。
まずはじめに、HCAP内で共有されている考えの一つとして、我々は大学という共同体の一員であることを再認識していることを皆さんに伝えたい。それはつまり、大学を意味するラテン語のUniversitasは、真理追求のための共同体を意味することを日ごろから意識することであり、「学問」を実用的なツールとしてではなく(それも重要ではあるが)、H・アレントがいうような知の追求を行うことが大学生の本来的役割であり、HCAPもそのような理念を掲げることに努力をしていくことを決心しているのである。
とはいえ、何故HCAPに所属している東大生がわざわざ2月にハーバード大学に行き、3月にハーバード生を迎えてまで「議論」することにこだわるのか、不可解だと考える人も少なからずいるでしょう。それに対する答えとして、国境を越えた「common good(共通善)」の模索を学生レベルで行っていることの重要性が挙げられるでしょう。つまり、common goodとは物質的な富ではなく、精神生活を含めた人々の「公共的な善き生活全般」を意味しているのであり、社会正義は究極的にその実現を目指していると我々は考えているからです。そんな中、正義のような人為的規範も人々の合意やコンセンサスによって、より学術的にいえば社会規範やzeitgeist(時代精神)によって規定されるわけだが、「議論」というのはまさしく「正義」のような概念をポロネーシス(熟慮)によって捉える試みである。そして、グローバル化が進展している今日、「議論」、とりわけ「熟議」は国境横断的に、そして学際的に行わなければならないのである。
東京大学総長を務めた南原繁は、教育基本法の第一条で、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値観をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と述べているが、我々も教育の意義をそのように捉えている。
多様な価値観が存在する今日、社会正義などのようなものを議論するのは、フラットな討議空間で行わなければならない。そして、その参加者は、なるべく多くの価値観を代弁していればより実り多き議論になると考える。ハーバード生とアジアの学生が行う「議論」は、エスノセントリズム(自文化中心主義)に特徴付けられた「東洋」対「西洋」のような二元論的なフレームワークではなく、どちらかといえばリアリズムにかなったビジョンの共有をめざすものであると私は考え、グローバル化に伴う不安定性に立ち向かうために有効だと確信している。
もちろん、「議論」というものをコンセプチュアルに捉えようとしたこの試みは私の私見に基づいており、正しいかどうかの判断は江湖に委ねる。
HCAP5期代表 高橋 亮