山芋変じてウナギとなる。 | おじさんの依存症日記。

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 梅雨空の中、過酷な名古屋の夏がやってきた。 

 

 呼びもしないのに。 

 

 降ったら降ったで蒸し暑く、晴れたら晴れたで30度を越す夏日が続く。 おじさん、すっかり食欲を無くしてしまった。 ま、おじさん、糖尿だから、摂取カロリーは低いほうがいい。 かといって、何もしなくて息してるだけで、人間、基礎代謝という形で栄養分は消費されてゆく。 バテる道理だ。

 

 やはりこういうときには、ぬるぬるねばねば食品を摂らなければいけないのだろう。 植物系ならば、山芋、納豆、オクラの類。 動物系ならば、ウナギやドジョウか。

 

 『万葉集』 の第十六巻に、「石麻呂にわれもの申す夏痩せに良しというものぞ <むなぎ> とりめせ」 という大伴家持の有名な和歌がある。 <むなぎ> とは、もちろんウナギのことで、奈良時代からウナギは栄養食品として知られていた。

 

 いまの若い人はご存知ないだろうが、おじさんがご幼少のみぎりには 「山芋変じてウナギとなる」 ということわざがあった。 日本人の間では、長く 「歳を経た山芋がウナギになる」 と信じられていた。 ウソみたいな話だ。 しかし、かのギリシヤの哲学者アリストテレスでさえ 「ウナギは泥より生ず」 と、その著書に記している。 これはなぜか?

 

 お魚博士の末広恭雄先生によれば、ウナギはその受ける感じが幾分怪異なことと、淡水では決して卵を産まず、赤道に近い南の海まで行って産卵するという不思議な習性によって、しばしば化け物扱いされて伝説に登場するという。 

 

 さらにウナギの神秘性を高めているのが、その皮膚の表面から、呼吸に必要な酸素の5分の3を直接摂ることができることだ。 で、大雨が降ると、ウナギは湿った土の上を這って、Aの水域からBの水域へ陸上移動できる。 そのため、いままでウナギのいなかった池や沼に、突如ウナギが姿をあらわすという結果になる。 だから 「山芋変じてウナギとなる」 や 「ウナギは泥より生ず」 といった誤解が生まれたのだろうと述べておられる。

 

 そして実際、古書の中に 「遠州 (静岡県) の大井川の川上で、山の芋が半分ウナギになり、そのウナギになった部分が岩の間から大井川に身を乗り出して泳いでいる」 という様を目撃した人の話が出てくる。 また、同じような話を、肥前平戸六万千七百石の藩主であった松浦静山が、随筆集 『甲子夜話・かっしやわ』 に書いている。

 

 『醒睡笑・せいすいしょう』 のなかに、ウナギ好きの生臭坊主の話も登場する。 

 

 ある寺に仏教を深くおさめ、て、檀家からもたいへん尊敬されている住職がいた。 ところがこの坊さん、大のウナギ好き。 こっそりウナギを買い求め、ひそかに料理して食べていた。 ある日大きなウナギをまな板に載せて、包丁を取り上げ、まさに料理しようとしたところに、ひょっこり檀家の一人が訪れた。 和尚、少しもあわてず、首をかしげ、
 「はてさて、不思議なこともあるものだ。 昔から、山の芋は歳を経ればウナギに変ずると申すのは虚説だとばかり思っていたが、ほれこのとおり、山の芋を吸い物にしようと思っていたら、みるみるウナギになってしまった」。

 

 現代では、僧侶の戒律もかなり緩くなっている。 が、江戸期までは、大方、僧侶は戒律を守るのが当然とされた。 しかし、実際はその生活はかなり乱れ、寺院では怪しげな隠語が飛び交っていたという。

 

 牛の角 (かつおぶし)、踊り子 (ドジョウ)、金釘 (煮干)、かみそり (鮎)、白茄子 (卵)、天蓋 (たこ)、緋の衣 (えび)、赤どうふ (マグロ)、山の芋 (ウナギ)、といった具合。 

 

 案外、「山芋変じてウナギとなる」 という言葉も、仏教寺院から出たものかもしれない。 しかし坊さん、山芋にしろウナギにしろ、精をつけて一体何をしようとしていたのか。 あはは、野暮はよそう。 いくら時代が変わろうと、変わることのない人間の煩悩を思うと、おじさんはなんだかホッとする。