清水清香と高野文子。 | おじさんの依存症日記。

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                                     © おうひと佐也可 名義のイラスト
 

 清水清香という女性が唯一描いたというか、発表 (2003年) されたマンガに 『家族喧嘩』 という作品がある。 その作品が描かれた経緯と顛末については、マンガ評論家の竹熊健太郎氏が下記に書いておられる。 作品、と言っても表紙を合わせて6ページの習作だが、ここで読むことができる。 とりあえず、まず作品を読んでほしい。 その際には、各自、拡大率を調整していただきたい。

                          

 竹熊氏も書いておられるように、大学1年で描いたとは思えぬ、飛びぬけた画力と発想力を持っている。 家族というコミュティ内の異質な価値観の衝突、家族喧嘩を、少女マンガ的絵柄と青年マンガ的絵柄を同一平面上に混在させることによって、見事に表現している。

 この作品を読んでいておじさんが思い出したのが、高野文子の 『田辺のつる』 (1980年) だった。 (処女単行本 『絶対安全剃刀』 所収)。 高野文子はデビュー30年で単行本7冊という、たいへん寡作な作家だ。 しかしそのうちの三冊、 『絶対安全剃刀』 が第11回日本漫画家協会賞優秀賞 (1982年) 、『黄色い本』 が第7回手塚治虫文化賞マンガ大賞 (2003年)、『ドミトリーともきんす』 が第38回巌谷小波文芸賞 (2015年) を受賞している。

 さて、高野の初期作品の中の代表作の一つ、『田辺のつる』 だ。 認知症の始まった82歳の老女、田辺つるを中心に、田辺家のある日の情景を淡々と描いた16ページの作品。 ただし高野は、大友克洋風の画風で描かれた一家の中で、この老女だけを 「きいちのぬりえ」 風のかわいらしい童女の姿で描く。 主観として童女に退行してしまった老女の内面を、絵としてそのまま具象化している。 そして異質な童女となった姿を、大友克洋風に描かれた家族の客観的視点の中に混在させることによって、認知症になった田辺つるを象徴的な存在ととらえる。 老女を童女の姿で描くこの方法は発表当時、マンガでしかなしえない表現としてさまざまな観点から論じ られた。
 
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                                  ©  高野文子

 評論家の松岡正剛氏は、「松岡正剛の千夜千冊」 で、
 
 < 「少女の気持ちってどういうもの?」 って聞いたら、山口小夜子は 「そうね、高野文子を読むとわかるわよ」 と教えてくれた。
 小夜子がそのとき勧めたのは名作 『おともだち』 で、ぼくはただちにそれを読み、そしてますます少女が不可解になった。ますます魅力的にも見えてきた。
 それからというもの、ぼくの少女マンガの読み方が変わっていった。とくに高野文子と大島弓子については、まるで少女に関する哲学書のように読んだ。
             (中略) 
 われわれ男性は少女感覚のどんな本質も描けっこないのである。それをあざ笑うかのように軽々と証明しているのが、高野文子であり、大島弓子という稀有な才能なのである。
 ここにとりあげるのは 『絶対安全剃刀』 という初期作品集で、高野文子の少女感覚が如何なく発揮されている。ほんとうは 『おともだち』 もとりあげたいのだが、誰かに貸したまま戻らない。
 標題になっている 「絶対安全剃刀」(1978)は、高野文子が日本男児を心する二人の美少年に託してアンビバレンツな感覚を描いたもので、ここにはまだ本音がちょっとしか出ていない。
 それがいよいよ本領発揮となるのは 「ふとん」 (1979)と 「田辺のつる」(1980)で、「ふとん」ではカジュアルな観音と遊ぶ少女の好き嫌いのはげしい感覚が、「田辺のつる」ではおばあちゃんになってまで生きつづけている少女感覚の怖い本質がずるずるっと引き出されている。とりわけ「田辺のつる」 などは絶対に映画にはなりえないマンガ独得の手法もつかわれていて、ただただ感服させられた。> と書いておられる。

 前出の竹熊氏も、つげ義春、大友克洋とともに高野を 「音楽界で言うところの 『ミュージュシャンズ・ミュージシャン』 にあたるマンガ家」 と評し、「高野文子の存在なくして後続の岡崎京子や桜沢エリカ、内田春菊、一條裕子といった女性作家が、今のような形で存在することもなかっただろう」 と述べている。

 ここで 『田辺のつる』 の中でも最も印象的なシーン、高校生の孫・るりかに、ボーイフレンドが来たからと部屋を閉め出され、ドアに向かって投げかけられるつるのセリフを書き写しておく。

 「るりちゃん/るりちゃん」 「ごめんね/もうしない/から」 「ごめんなさーい/もうしません/いい子に/なります」 「ごめんなさい/ごめんなさい/いい子に/なりますから」 「おかーさーん」 1ページひとコマで机に座った孫の背を描き、ドアの外から、.「ここ/ちゅうちゅうねずみ/でるんですー/こわいのー/あけてー」 次のページ、やはり1ページひとコマで、コマの中央に描かれたドアの外から息子の金蔵に呼びかけるように、「きんぞー/きんぞー/いい子に/なりますね」 「おとうさまが/帰って/らっしゃい/ますよ」 ここで突然夫に向けた言葉になり、「あなた!」 「あなた!/ここあけて/下さい」 「何して/らっしゃるん/ですか」 「あなた/はやまったこと/しないで下さい/私達どうしたら/いいんですか」 「ここ/あけて/下さい」 「お願いです/あけて/下さい」 「あけて/下さい」 「あけて/下さい」

 この2ページ、つるの姿は一切描かれない。 無機的に描かれたドアの向こうで、つるが童女から母に、そして妻へとメタモルフォーゼしているような、不気味な緊張感と異化効果を演出している。 次のページ、カチャリとドアが少し開く/無言で立っている、るりか/ドアの外、きいちのぬりえ姿でぽつんと立つ、つる。/ 「なーんだ/るりちゃん/でしたか」。

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             ©  高野文子

 清水清香と高野文子、一方は少女の持つ独特の感性を、また一方は老いによる幼児退行を、周りの家族を描いた絵柄とは異なった形象をあえて日常に投入することによって、その異質な部分を鮮やかに日常から乖離させている。 しかもその手法を一回性のものとして易々と捨て去り、新たな地平を目指して作品を発表し続けているのだ。 ともに作家としての潔さを感じずにはいられない。



 P.S. いゃあ、マンガを活字で説明するのは難しい。 これはもう、本を買って読んでもらうしかない。 きのう書きかけていた文章だが、途中で挫折して今日に持ち越した。 なんと4時間もかかってしまった。 もうマンガについては、二度と書かん。
 


          高野文子
              高野文子さん近影