長野に先月転居した高校の同窓がいて,時々連絡を取り合っていたが,
こんな会話をどこかでしたことを覚えている.
心配するのと,信じる(信用する,でもいいのかな)のとでは,
似たような心の動きだが,実際は決定的な違いがあるのだ,と.
どちらの持ちようを選ぶかは,さておきその心を寄せる対象,心を向けている対象
があるはずで,
心配する,を選ぶは,その対象の可能性を否定することが前提,
信じる,を選ぶなら,その対象の可能性を肯定することが前提.
そういうもんなのではないか,みたいな会話だった.
半導体産業は台湾系の企業にワールドワイドで掌握されてるようで,
それで日本の自動車産業はハンデをしょっている,かもしれない,
プレステ5も販売伸び悩み,かもしれない,
大丈夫か?
とか,
今どきはスマートウォッチやらスマホやら,デジタルデバイスが一人ひとつ
以上あるのが当たり前で,時刻の確認という行為はそれらで済むにもかかわらず,
ビジネスモデルの変革がうまく進まず国産時計メーカーは株価に値が付かない,かもしれない,
大丈夫か?
とか.
所詮は,心の動きに過ぎず,心配するのか信じるのか,それまでの自分の
習い性としての条件反射で流されるのではなくて,多少の理性を添えながら
選べるのが心の動きだとしたら,
大丈夫か?という感情が宿る余地が自分の心にあるのを放置するくらいなら,
スイッチを入れて切り替えて,次の手を打つ.
行動と「信じる」心のありようを結びつける試みをする.
そんな感じのことは,できる限りでやってみたい.
それが上手くできるようになるのが,いわゆる「年の功」かもしれない.