広島で乳がんの治療をしているひがき乳腺クリニック院長・檜垣健二です。
私と同時に外科に入局したのは20人余りでした。当時は4年間のローテーションを前半後半とに分け、大病院と小規模の病院に交互に赴任することとなっていました。行き先はくじ引きで決められました。
私はくじ運が悪く、当時は不人気だった国立福山病院(現福山医療センター)に派遣されました。人気のない理由は、上級医が下級医に手術をさせなかったからでした。
結局、私は4年間そこにいて、大学に戻りました。大学では肝移植の動物実験をすることになりました。
そのおかげで、私の手術の腕は誰にも負けないほど上達しました。4年間の研究室を終えてアメリカのピッツバーグ大学に留学の話がでたとき、私は悩みました。
大学の医師としての使命は①研究、②教育、そして③臨床と三つあります。私はすべての時間を目の前の患者さんに使いたいと思いました。
そして、私の上司の勧めを振り切って再び国立福山病院に戻りました。その直後、以前私に手術をさせてくれなかった先生が頸椎のヘルニアで長期間休まれました。
福山では乳がん患者さんが集まることで有名だったその病院で、私は来る日も来る日も手術をすることができました。昔の医局制度は40歳まで自分の意思を出さずに医局の指示通りに動けば、最後は希望通りの病院に行ける仕組みでした。
私に希望通り広島市民病院への赴任の命令が出たのは福山に帰って5年を過ぎていました。
広島で乳がんの治療をしているひがき乳腺クリニック院長・檜垣健二でした。