人が物を選ぶ、そして物も使い手を選ぶ。


ついでに言えば、物が人の想像力を導き出す。


ただ、ものにも相性というものがあり、相性が合わなければ意味がないのだ。


相性があってこそ人は想像力を出し切ることができ、物を作り出せる。


それは、たとえばどんな物作りでも言えると思う、絵や小説、音楽そのほかにも機械製造などもそうだと思う。


それは人が求めるから人が物を作り出し、物も物を作り出す。


これはもう人間にとって、一つのつながりのようなものなのかもしれない。


そして、恋愛においてもそうなのかもしれない。



人と人がふれあうことで、その間に何かが生まれそれがやがて友達関係、恋人関係となる。


その間に生まれるものがその二人にとっての作品であり、やがては朽ち果てていくもの。


けれど、作り出された”モノ”というのはこの地球上のメモリ(記憶)として残る。



これは前、話したことと同じことのように思えるのだが


結局、いいたいことは朽ち果てようとも残ったという証拠は何らかの形で残るのだ。



それは人自身がここに存在した、そこに存在したという一つの目印のようなものなのだ。



だから、それに憧れ、それを求める、何かを求める、だからこそ人にとってそれが一つの糧となって生きていく意味を自分自身で見出せるのではないだろうか。


そう考えるともしかしたら、”諦める”ということは人の選択肢には必要ないものなのかもしれない。





End



もしかしたら人は、アダムとイブが誕生してしまってから人は呪われた生き物なのかもしれない。



醜い争いを幾度と続け、人を苦しめ、憎しみ、その憎悪を解消するべく人を殺めてきた。



そして、人間というのはいつになったら気づくのだろうか?



邪悪が生まれれば正義が生まれ、また邪悪が生まれ、その連鎖の繰り返しと・・・・。



なぜなら、邪悪が生まれればそれを討とうとする正義が生まれる。


そして、それが正しいことなのだと人を殺め、さらに人を殺してくそして邪悪にかりとられ、人の道をはずれ邪悪となる。


そこにまた正義が生まれそれを討とうとする。


その繰り返しなのだ。


結局のところ、人の心がそうさせると気づいていないのだ。


個人の善と悪、そのどちらかの一面を人に押し付けお前は悪だ。


俺は善だと言い切る。


そして、おこるのが戦争だ。


幾度となく繰り返される。


だから、人はある種、呪われた生き物なのかもしれない。


それは、神が与えたものだとしてもそれをいつかは脱会しなければならないことなのだろう。


しかし、今の人々にそんなことができるはずもない。


それは私とて同じ、人を恨むし、殺したくもなる。


それは誰もが同じことなのだが、しかし、その中にある自分の個人としての一面をさらけ出してしまっているからであるのだと、気づくべきなのだ。



だから私は思うのだ、人という生き物は呪われた生き物。


それはもうすでに決まっていたこと、アダムとイブそしてそれを陥れたルシファーによって・・・。


そう、私たちは自分の心に”ルシファー”を誰もが宿しているのだ。


それが呪いだ。


アダムとイブが禁断の果実を食べてしまったことによっての・・・・。


だから人は生まれながらにして呪いをもっているのだ。


それはもう仕方がないことと、諦め、決着を何らかの形でつけるべきなのだ。


個人としての、共同体としての意思だけで争いは止められるようなものではないのだ。




それを理解することが一つの手段なのだ。



英雄なんて存在はしない、現われはしないのだから・・・・。



End

たとえ、自分が想像し作りあげたものが古くなり朽ち果てようとも、それこそが生きた証になる。


そして、それは決して、全てがなかったかのようになくなるわけではないのだ。


どんな形にもそれはなりえるし、その形こそが、生きた証なのだと、それだけで示すことができる。



それはまるで刀のようだと思う。


名刀村正や正宗といったものは、名高いものであり、そして、今この世界にある村正と正宗はそう多くは存在しない、それは名前が刻まれていないものが多いためであり、今、それが本当に存在するのかさえ怪しいのだ。


けれど、その形がもしないとしても、それは文献という形で現代に生きているし、名の残る偉人たちにとっても誇り高いものであったといえよう。


だからこそ、どんな作品であろうと、一生、朽ち果てることなんてない。


文献であろうと、でなかろうとも、だ。


たとえ、そういった形として残らないとしても地球の中の記憶として生きいよう。



だから、どんな駄作さえ、それ一つだけでも自分が生きた証なのだ。



そしてそれが己のプライドと思えばいいのだ。