【戦艦大和】日本兵3332名壮絶なる覚悟!『我々は死に場所を与えられた』 | おふくのブログ

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日本でのごく普通の日々の中で、心動かされる素敵なものに出会い、誰かに伝えたいと思った時に書く…今も変わらぬスタンスです。
気づけばユーチューブ動画のご紹介が中心で、少しでも分かり易い記事をと思いやっております。




この動画の最初にも出てきますが、第二次世界大戦中に沈没した大日本帝国海軍艦艇の沈没位置を示す地図で、大日本帝国海軍の規模がいかに強大だったかと国内外で驚き!という内容で少し前に話題になってましたが、最近自分も同内容のGoogle Earthで見る旧日本海軍という動画を見て、こんなにたくさんの艦艇とともに日本人乗組員が沈んでいったんだと悼み悲しみを感じていたところ、今回の動画がUPして、あの地図で示された艦艇の名一つ一つが、たくさんの人と想いを乗せたまま沈んでいったんだとわかり悲しみを新たにしました。

1945(昭和20)年4月初め、沖縄救援の目的の天一号作戦、戦艦大和を始めとした海軍連合艦隊の生き残りによる、沖縄方面への水上攻撃作戦で、戦艦大和最後の戦いとなる坊ノ岬海戦が発生。この作戦に参加する艦は出撃できない艦から燃料や弾薬を分け与えられ、基地に備蓄された僅かな燃料までも積み込み、それでもタンクを満タンにすることはできずに出撃。将兵たちはみな、出撃したら最後、恐らく生きては戻れない特攻作戦であることを覚悟した上での出撃(ピクシブ百科事典参照)だったそうです。

この動画では、出撃前の大和乗組員それぞれの想いが伝わってきます。生きて帰れないとわかっていても覚悟は固く誰一人欠けることがない。豊後水道を通り日本と別れを告げる時のそれぞれの想いには、涙が止まりませんでした。

動画では実際の写真画像も多いです。ぜひご覧ください。また、最後に旧日本海軍艦艇の沈没位置を示すGoogle Earthを載せた動画も添付しました。

【戦艦大和】日本兵3332名壮絶なる覚悟!『我々は死に場所を与えられた』 24:24

内容・書き起こし


◆宮城の空に誓った決意◆
~それぞれの戦艦「大和」~



旧日本海軍艦艇の“沈没位置を示した”一枚の地図。

第二次世界大戦中に沈没した、大日本帝国海軍の艦艇の数は、軍艦が651隻、徴用船を含む商船が2934隻で、合計3500隻以上。

地図ではアジア周辺で沈没した、戦艦のみがマークされている為、実際にはもっと多くの旧日本海軍の艦艇が“海に沈んでいる”事になる。


■呉の夜空を仰ぐのもこれが最後なのだろうか■

昭和20(1945)年3月28日、戦艦「大和」は呉軍港に係留されていた。

4日前の24日、連合艦隊司令部から「出撃準備命令」が出され、25日から28日まで全乗組員に交代で上陸が許可された。既に米軍の侵攻が始まっている沖縄に“出撃するらしい”という噂が飛び交っていた。
上陸の数日前には「長男である者、または自分が一家の中心とならねばならない、事情を持つ者は申告せよ」という、指示が下されたが、ほとんどの者が「後顧の憂いなし」と答えた。

15分隊工作科の舌崎(したざき)省悟18歳は27日の夕刻に上陸し、呉の吉浦にある実家に向かった。
班長は「親兄妹に別れをして来いよ」と言っていた。
満天の星空を見上げながら、“呉の夜空を仰ぐのもこれが最後なのだろうか”と不安がかすめた。
家に着いたときには7時を過ぎていた。

「よォ、今着いたか、みんな待っとったぞ」と兄が飛び出してきた。
居間には夕食の用意が整っていた。皆、これが『最後の上陸』になることを知っていた。
「お前、元気で頑張れよ」と兄がとっておきの配給ビールをついでくれた。
父は黙っていた。母も言葉少なだった。

■総員3332名、一人残らず戻ってきた■

食事を終え風呂に入ると、もう10時過ぎだった。
大和ではゆっくり風呂に入れないので、たっぷり水の使える家の風呂は天国だと思った。
風呂から上がって、“畳の上に思い切り体伸ばして”寝そべった。
母は舌崎のそばから離れなかった。

布団に入ってウトウトしかけた時、警戒警報のサイレンが鳴った。
舌崎は飛び起き、急いで軍服を身に着けた。
それを見た母が「もう行くんか」と声をかけた。
「ああ、行く」と答えると、母は疲れた顔で
「元気でな。体に気をつけて。みんなと仲良くしなさいよ」と言った。

舌崎は家を飛び出し、走った。

灯火管制のために、舌崎の生まれ育った吉浦の町は真っ暗で、天上に光る星と月の明るさだけだった。
呉の第一陸場に着いた時は、夜中の1時近かったが、警報で他にも急いで戻ってきた連中が大勢いた。
大和へのランチ(小艇)に乗り、“何時だろうか”と腕を見て、実家に時計を置いてきたのを思い出した。
形見のつもりだった。

こうして総員3332名は一人残らず、特攻出撃前の大和に戻ってきた。
“一人の落伍者もなく”という所に、当時の乗組員の『覚悟』がよく現れていると思う。

■病院を脱走して戻ってきた内田兵曹■

逆に、戻らなくとも良いのに無理に戻ってきた兵員が一名いた。
内田貢・兵曹である。

昭和19年(1944)年10月26日のレイテ沖海戦で、左舷9番機銃の射手を務めていたが海面で炸裂した、至近弾の破片を大量に胸に浴び、右目を失った。
呉海軍病院に入院していたが、“大和が出航するらしい”と聞いて、「そうや。山本長官から拝領した短剣を大和の自分のロッカーに入れとった」と思った。
内田は柔道部の猛者で、山本五十六・連合艦隊司令長官が大和に乗っていた頃、内田は毎晩のように按摩をした。
昭和18(1943)年2月に連合艦隊司令部が戦艦「武蔵」に移った時に、山本は「君には長い事世話になったね」と短剣を内田に授けた。その鞘には『五十六』と銘が彫られていた。

その短剣を取りに行こうと、3月28日の早朝、呉の病院を脱走したのである。
軍服は病院の中にあったものを黙って拝借した。眼帯にマスクをし、弾の破片の残っている足の激痛をこらえながら、上陸桟橋まで歩いて行った。
衛兵の前を通る時は無理して、しゃんと歩いた。

■わし、戦闘配置、無いものな■

大勢の兵員に紛れてランチに乗り込んだが、誰も怪しむものはいなかった。
ランチの中で泣いている兵員がいたが、内田は“なぜ泣いているのか”不思議だった。
大和に乗船すると、顔見知りの鬼頭兵曹がいた。
小声で声をかけると、鬼頭は「お前、生きとったんか。わし、もうアカンと思っていた」と驚き、内田を片隅に引っ張っていって「お前、なんでこんな所に・・」と当惑しながらも、「とにかく、こっちに来い」と最下甲板で身を隠せる小部屋に連れて行った。
その夕刻、大和は出航してしまい、内田はこの小部屋に隠れていた。

4月6日夕刻、特攻作戦の内容が全員に知らされ、鬼頭は「内田、どうする。えらい事になった」と言った。
内田は湿った声で「わし、戦闘配置、無いものな」と答えた。「お前、そんな体して何言うとる」
運命というか、何なのか、自分の気持ちは説明できなかったが、内田はこうして“愛する大和の仲間たち”と運命を共にする事となる。
途中で病人食などが下船する機会があったが、鬼頭はもう内田に“お前、降りろ”とは言わなかった。

■満天の星空に高くそびえる艦橋■

内田が舞い戻った3月28日夕刻、大和は出航し山口県防府市の沖合いに錨を降ろした。
特攻出撃の電報命令が届いたのは、4月5日午後3時であった。

“第二艦隊「大和」以下ハ、水上特別攻撃隊トシ、沖縄ノ敵泊地二突入シ、所在ノ敵輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ”

『総員集合、前甲板』の命令が下り、有賀艦長が全員を前にこの命令を読み上げた後、こう結んだ。
「出撃にあたり、今さら改めて何も言う事はない。乗員各員が“捨て身の攻撃精神”を発揮し、日本海軍最後の艦隊として、全国民の輿望にこたえるよう。」
日没後の6時、「酒保開け、各分隊、酒を受け取れ」との指示が艦内スピーカーから流れた。
やがて、あちこちの兵員居住区から「宴のざわめき」が聞こえてきた。

司令部通信参謀付きの渡辺光男は宴の続く、ガンルーム(士官次室)を抜け出して、甲板に出た。
満天の星空に、高くそびえる艦橋を見上げた。まさに王者の風格だ。この艦橋が俺の戦闘配置だと、渡辺は思った。そして、明日か明後日には、敵機が“飢えた鷹の様に”襲来してくるだろう。
渡辺には幼なじみの19歳の婚約者がいた。この正月に東京から呉まで渡辺の頼んだ、軍刀を持って来てくれた。海軍病院の裏手にある小山を1時間ほど散歩しただけで別れた。渡辺は別れ際に、腕時計を外して渡した。

「いよいよだな」と竹内英彦の声がした。竹内は慶応大学から学徒出陣でやって来て暗号士をやっている。
渡辺とは海を見ながら、映画や本の話をする親友だった。
2人はお互いに写真を入れたお守りを交換し、“どちらか生き残った者が、家に届けよう”と約束した。

艦内スピーカーが、21時を告げ、宴の打ち切りを命じた。艦内の騒ぎはぴたりと収まった。
「この期に及んでも艦内の規律は寸毫(すんごう)の狂いもなく出陣に際し、“一丸となった意気込み”を感じることができた」と副長。能村次郎は回想している。

■我々は死に場所を与えられたのだ■

翌6日の午後、草鹿龍之介・連合艦隊参謀長が水上偵察機で、大和にやってきた。草鹿参謀長は、第二艦隊司令長官・伊藤整一が特攻出撃命令に『反対を表明』していたので、改めて“引導を渡しに”来たのである。

『大和以下10隻の艦艇と、7000名の将兵を無為に犠牲にする事は避けたい。艦自体を浮き台として、不要な人員弾薬は陸揚げして本土決戦に備えるのが、最も有利な方策である』
というのが、伊藤司令長官の考えであった。

草鹿参謀長は言った。
「要するに、“死んでもらいたい。”一億総特攻の模範となる様、立派に死んでもらいたいのだ。」
伊藤司令長官は即座に答えた。
「それならば何をかいわんやだ。よく了承した」

作戦打ち合わせの為に、指令部員と各艦長を招集したが、そこでも草鹿参謀長に対して、「連合艦隊、『最後の作戦』と言われるならなぜ、指令長官も日吉の防空壕を出て、この特攻出撃の『陣頭指揮』をとらんのですか」と批判が出た。
その時、伊藤司令長官はただ一言、万感を込めて言った。
「我々は“死に場所”を与えられたのだ」
これで議論は止んだ。

■総員前甲板集合■

第二艦隊は大和を殿(しんがり)とする一列縦隊となって、豊後水道を通っていく。別府湾の沖合いを通過した時、艦橋では見張り員が「桜だ、桜が咲いている」と声を挙げた。早咲きの山桜が:遠く、おぼろに霞んでいた。ここを通過すれば、いよいよ、敵が待ち受ける太平洋に出る。

夕刻、『総員前甲板集合』の命令が出て、当直以外の全員が、前甲板に出た。
航行中の為、有賀艦長は艦橋を離れられないので、副長の能村次郎が、連合艦隊司令長官の訓示を伝達した後、静かな口調で言った。
“今から我々は水上特攻として、沖縄に突入する。『二度と祖国の土を踏むことはできない』と覚悟してほしい。乗組員一同は精神を引きしめて頑張り、国のために尽くしてもらいたい。”

この時、高角砲発令所長の細田久一は一瞬、みんなの顔が「青くなった」ような気がしたが、すぐに上気した表情に変わった。“くそ、やっちゃろう”という気持ちが顔に出たのだと思った。これこそ、敵を撃滅せんとする、『大和魂』なのだと思った。
細田は上陸の時、呉の家に一泊した。妻も子供もいた。“今度出撃すれば特攻だろう”と感じていたが、妻にも誰にも言わなかった。

■決意■

副長訓示の後、乗組員は皇居の方角に向かって遙拝した。
「君が代」斉唱がすむと、副長の音頭で「皇国万歳」を三唱した。

解散の号令がかかったが、しばらくは誰もその場を去ろうとせず、夕闇迫る甲板に立ちつくしていた。
四国の海岸の松の木が、夕陽の中にシルエットを作っていた。

家郷の方角に姿勢を正して帽子を脱ぎ、頭を下げて動かぬ者がいる。
両手を高く挙げ、ちぎれるほど振っている者もいた。

見えない父母弟妹に、
妻や子に、恋人に、
最後の別れをした。
みんな泣いていた。

測距儀の石田直義も、「君が代」を歌い始めた時、涙が出た。最後に帰った時の事がまぶたに浮かんだ。長男が誕生して一週間目だった。家を出て歩き出したが、もう一度、家の回りをまわった。
“息子をもう一ぺん、この腕で抱きしめたかった。”
妻や息子の事が思い出され、涙がにじんだ。

“遙かに拝む宮城の空に誓ったこの決意”
誰かが歌い出すと、みな声をあわせた。
暗くなりかけた、海の彼方に大合唱となって広がっていった。

3332名、それぞれの家族や国への思いを乗せて、大和は『最後の決戦』に向かっていった。
漆黒の海面には、巨大な軌跡が白く尾をひいていた。


1945年(昭和20年)4月7日、
戦艦大和は
天一号作戦において
第二艦隊旗艦として
き(麻の下に毛)下の第二水雷戦隊と共に
沖縄方面に出撃したが
米軍の
機動部隊の猛攻撃を受け
“坊ノ岬沖で撃沈”
された。
3332人の乗員の内、
生還者276名だった。


以上です。


今の時代に生きて、自分は何て幸せなんだろうと思いました。家族と共に生きたくても、その家族を守るため、死ぬとわかっていても覚悟を決めて戦うしかなかった。生きられなかった。一億総特攻の模範となる様立派に死んで貰いたい。7000名の命にである。震えてしまった。今に生きる自分はこれを責めることはできない。そこまで追いつめられていたのだと思う。また、この熾烈な徹底抗戦があったからこそ、戦後の日本があると知った。感謝してもしきれないです。そして、これら特攻や、その他戦地での先人たちの戦いを知る度に思うのは、私たちに、教訓とせよ!と言われている気がします。負け戦は絶対にするなと。負け戦にさせられてはならないと。それは戦う前からの謀略に備えよということでもあると思います。先人たちは、負けさせられる戦いだとわかっていても、死に物狂いで今に続く日本を守ってくれたのだと思います。だから、私たちは、その想いに応えなくてはいけないと思います。二度と負けない!日本を守りきる!国民がその意識を共有しなくてはいけないと思いました。


海外の反応「資源も何もない国が」日本の強大さが一目で分かる地図に驚愕の声 12:37