先日、研修として特別支援学校に行ってきました。ただ見学というわけではなく、授業の補助などを行い、子供と触れ合ってきました。
 障害があるといっても、子供によっては重度が様々で、体の一部が動きにくい子、車いすの子、思い通りに言葉を声に出すことが苦手な子、鼻に管を通している子、自分でご飯が食べれない子、様々であった。
 最初に感じたことは、どのようにコミュニケーションを取ればよいのかいいのかということでした。というのも、初対面であること、私は身体に不自由がないこと(一部分において、不自由だが)、上手く発声することができず言葉が理解しづらいもしくは発声できず理解できないことなど未体験の要因があったからである。つまり、互いに何かを共有することが困難であった。ただでさえ、人と話すことが苦手なのにどうしたらいいんだろうってそんなことばかり。
 そんなことを思いながら一日中、子供たちとそばにいて、同じ空間、同じ時間を一緒に過ごした。一緒にいて思ったことは、言葉よりも伝わるものがあることを実感した。それは非言語的なモノである。例えば、手を繋ぐことや体をすり寄せること、高い声や低い声、アイコンタクト、顔の表情など感覚的なモノ。特に体が触れ合うことが大事なんだと思いました。自分の気持ちというか何かが直接届くような感覚。真心の想像力が繋がる瞬間でした。この物理的な距離感を縮めることで、心の距離感も一気に縮まることを身をもって知ることができた。
 そして、感じたことがもう一つ・・・。

「生きるために生きるということ」

 「生きるために生きているということ」というものは、私たちには消えかかっている感覚なのかもしれない。僕にはこんな感覚はあまりない。「頑張る」といって連想するのは「仕事を頑張ろう」「スポーツを頑張る」というありふれたものだ。子供たちは一生懸命に生きることを頑張っていた。一人じゃ生きていけないことは本人も自覚していて、仲間と協力しなくちゃいけないってことを感覚的に理解している。だから、何か手伝ってもらえれば必ず「ありがとう」っていうし、仲間が落ち込んだら励ましてあげるし、仲間が泣いたら一緒に泣いてあげる。本当に仲間を大切にしていて、一緒に生きていこうとしていた。

 貴重な体験だった。自分のプリンシプルが深まった。そして僕はどのような未来を創っていくべきか。そんなことを考えさせられた体験だった。

 
 思考すること。創造すること。伝達すること。いずれにおいても、それらは止まってしまっている。だから、僕は言葉をつらねること、文章を綴ることに億劫になっている。
 
 少し昔の文章を振り返ってみたところ、今よりも当時のほうがしっかりと言葉をつらねている。内容は幼稚かもしれないが、その瞬間に自分が思ったこと、考えたことを文字にしている。なぜこのようになってしまったのだろうか?
 
 僕が思うには、物事を考える時間がなくなったことが原因だと思われる。つまり、学生と社会人を比べて時間の使い方がガラッと変化したことである。
 学生の時は無限に時間があった。遊ぶ時間も学校へ登校する時間も寝る時間も起きる時間も自由であった。時間管理という概念すら私の中にはなかった。一方で、社会人になってからは時間の管理をしなければならなくなった。遅刻厳禁というやつである。一回の遅刻ですら信用にかかわる。ましてや寝坊なんて許されない。そうなると体調管理もしっかりやらなければならない。
 時間の使い方が難しい。一人でいる時間を創出することが難しい。別に物事を考えるのに一人でなくてもいいんだが、周りに大人数いてしまうとそちらとの関係性を気にしてしまいがちなので考えることに集中できない。無言を共有できる関係性は、こちらではまだ構築できていない。

 書くことを少しずつでもいいから習慣づけよう。頑張ろう。
『思考は実現化する』

そんな人に初めて出会いました。
自己啓発本とかスピリチュアル的なもので、このような一文を聞いたことはあったのだが、実際に本気でそのように考えてる人(実感している人?)に出会いました。

その人いわく、未来を強くイメージ(なりたい自分を創造)することで、自分がそれに近づいていく。いや、むしろ自分自身に引き寄せるといった方が正しいそうです。気が付くと、思考していたことが現実になるんだとか。

私も『このような自分になりたい』ってイメージすることがあるんだけども、私の場合は目標を決めてその目標を目指すというようにゴールに対して自分から近づこうとするタイプ。引き寄せるという感覚はない。

自分から近づいても、向こうからやってきても縮まる距離感は同じなんだろうけど、やはり立ち位置は全く違う。自分が変化するということと周りが変化するということ。

引き寄せるとは一体どういうことでしょうか。