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打越からあきる野へ移動。昨年に続きまして真照寺へ。
こちらもおこもり行事の名残です。薬師堂に籠って一晩中念仏を唱えたそうな。
少々遅刻気味で到着。
既に神楽が始まっていました。演目は「神剣貢」。
別名「小鍛冶」と呼ばれる演目。
演じるのは引田囃子保存会さん。
あしらいが主人に刀を持ってくるように命じられる。
このあしらいの面と動きがまた噛み合っていい感じなんです^^
「この刀は全然切れないから、もっと鍛える必要がある。相槌の打てる者を探して来い」
そこに現れたのは稲荷大神の使い天狐。
天狐の相槌のもとトッテンカッテン刀を打つ。
相撲みたいだと茶化すあしらい。
たくさんのギャラリーの中での熱演。芸能として息づいてるなぁと。
見事な刀を打ち上げ主人は満足して帰ってゆく。
この話は能楽の「三条小鍛冶」が里神楽に流入して着色された演目。
その後、祭囃子。演奏は神田流 下引田囃子連さん
さて、ここからちょっと難しい話。
引田囃子保存会さんの神楽はどこから伝わったのでしょうか。
三多摩で圧倒的な勢力・・・っていうとおかしいですが、同市の二宮の古谷社中という社中がありました。
過去形なのは現在は廃絶してしまったということです。
現在は囃子と道具の一部のみが引き継がれ重松流 二宮囃子連さんとして活動しております。
その古谷社中は寛永元年(1642)に陰陽師の家系の清兵衛によって創始。
神楽はもちろん説教浄瑠璃、面芝居など広く活動していました。
明治三年には八王子の初代西川古柳から車人形を伝授。大正期に歌舞伎を始めている。
神楽師というよりは神楽もこなす興行師であった。
埼玉県入間郡三芳町竹間澤の前田社中とも関わりが深い。
前田社中もまた土御門家支配下の陰陽師でもあったといわれ古谷家同様に
神楽、面芝居、歌舞伎などを行っていた。現在でも同地を中心に神楽を伝承している。
この前田家に古谷家の長女テイが嫁ぐとともに車人形が伝えられた。
ただし、神楽に関しては前田家のほうが古いようで安政年間(1854~59)にはすでに存在している。
両家ともに共通点が多いことから交流が盛んであったと推察される。
道具の面を見ても両社中で表情、作風がよく似ている。
また、前述の西川古柳も当時は西川連と名乗る興行師だったそうです。
現在は四代目西川古柳座と名乗り東京を代表する民俗芸能となっている。
当時は興行師ネットワークみたいなものがあったのでしょう。
古谷社中は三多摩、山梨、埼玉に神代神楽として多く伝えており現在も伝承されている代表的なものは
野辺囃子神楽保存会(あきる野市)、柏木野(檜原村)、小永田(山梨県小菅村)。
小永田では古い神楽を、柏木野には新しい神楽を伝えた。
また、それぞれに面と衣装の一部も伝えている。
衰退の一途を辿るなかで奉納していた地域の一つ野辺に神楽を昭和30年代に伝えた。
奥多摩町にもこの系統の神庭神代神楽が残るが、青梅市黒沢の若林洗太郎が伝えたものといわれる。
古谷家は賭けごと好きであったともいわれており道具や演目を賭けて賭けごとやったそうな。
伝えたというよりも仕方なしという処もあったのでしょう。
以前紹介した引田囃子連さんの神楽面 も二宮から譲られた面が多く存在する。
恐らく神楽もそんな流れの中で伝わったものであろうと推察される。
長文失礼しました。前田社中の関係の話も「ちくま座」絡みでややこしいのですが、それはまた別の機会に。。。
参考文献:
里神楽ハンドブック 三田村佳子著 おうふう 2005年7月
ふるさと東京民俗芸能(一) 佐藤高著 潮文社 1993年5月
解説シートNo.4 車人形について 八王子市郷土資料館 1992年