ご無沙汰しております。
なんのかんので他に移行しまして、こんなにお久しぶりとなってしまいました。
ちょっと長文を書きたくなったので久々の更新。そんな十年目です。
タイトルの通り、八王子市街地から各地に渡った山車についてのまとめ。
取りまとめただけなので概説的です。新発見もございませぬ。
高松町の山車(東京都立川市高松町)
欄間吹き抜けの江戸型山車でかつては雌雄の獅子頭をのせていた。
いつどこで建造されたかははっきりしないが、八王子の南新町で曳かれており、
その後、立川市柴崎三丁目(旧南幸町)に譲られた。
同町で使われなくなり、昭和63年(1988)に立川市錦町の錦東会に渡った。
この時に腐食の激しかった前方欄間と後部二層目が取り除かれた。
更に平成6年に立川市高松町に譲られ、二層の唐破風の屋根が取り付けられ現在の形となる。
藤橋の鎮西八郎為朝の人形(東京都青梅市藤橋)
原舟月作。明治15年に八日町から山車の部材と共に譲られたと伝えられる。
「八日市上町」の墨書きが残る。
人形は為朝と島人二人の三人立ちの人形の他、
一本柱の人形立てに必要な揚げ裏、芯棒、持ち送り等が残り、
揚げ裏に安政3年大仏師吉見浜三郎によるものであることが分かる。
持ち送り彫刻の一部は現在使用している山車の一部に移植されている。
与瀬の山車(神奈川県相模原市緑区与瀬)
明治25年頃に八王子より購入。単層唐破風の一本柱人形山車。
屋根に四角い穴があけられており、人形をあげた名残であるという。
彫刻と人形は盗難にあい現存しない。昭和22年の写真ではほぼ現在の形である。
千木良 上の山車(神奈川県相模原市緑区千木良)
明治25年頃に八王子より購入。芯棒、岩座も残るが、人形は当地に渡っていない。
千木良の囃子は目黒流の囃子を奏する原、西、岡本、底沢の集落の者で構成される。
数年後にこの山車をもとに宿で半原の宮大工矢内右兵衛によって下の山車を建造し、大戸流の囃子が奏される。
二台ともチャンチキ方式。近年の改造を経て着脱式の梶が付き微調整ができるようになったが、補助程度で基本的には従来通りのチャンチキによる方向転換を用いている。
當麻田の山車(神奈川県相模原市緑区相原)
明治27年(1894)に横山町もしくは寺町より購入したと伝えられる。
八王子より渡ったの上部のみで足回りは陸軍の輜重車(荷車)を橋本の車大工さんによって改造し、使用している。
當麻田の金太郎の人形(神奈川県相模原市緑区相原)
山車と同様に横山町もしくは寺町より購入。
人形箱に購入時の墨書きが残るも作者不詳。
六角の岩座も残る。
小原の山車(神奈川県相模原市緑区小原)
明治30年に八王子市の寺町より購入。
別途、個人で購入した鍾馗の人形をのせていたが、
人形の所在が分からなくなり、現在は有志によって復元した人形をのせている。
ちなみに『郷土さがみこ第五集』(1974)にかつての人形の頭が掲載されている。
上溝本町の山車(神奈川県相模原市中央区上溝)
明治40年(1907)に横山町から譲られた。
(譲られた山車は明治40年の大火によって焼失し、現在の山車は地元大工製とも)
大正初期の古写真には三味線胴の人形台に天照大御神の人形があげられている。
人形と三味線胴は別に保存してあるという。
荒田の山車(東京都青梅市小曾木)
単層一本柱人形山車。江戸末期から明治前期にかけて大横町の山車として和唐内の人形をのせていた。
明治43年(1910)に山車、人形と共に同地に譲られた。
人形に必要な芯棒、台座、揚げ裏も残されている。
和唐内の人形は文久3年(1863)に制作された。
虎退治の一場面で正絹の衣装を身につけ飾られた。
同地八坂神社御神体として保存されている。
御幸町の山車(埼玉県所沢市御幸町)
明治43年に所沢市御幸町が西多摩郡瑞穂町石畑下組より購入した。
石畑では砂川四番組から購入した説と八王子から購入したという二説が挙がる。
屋根裏の墨書きから明治6年の作であるとされる。
御幸町の関羽周倉(埼玉県所沢市御幸町)
関羽、周倉の人形残り、江戸後期天保の頃の制作と推測され、山車より古いことになる。
作者は二代目原舟月作とされる。となれば人形が山車より先に制作されたことになる。
前述の八王子説の根拠の一つとして多賀神社に関羽、周倉を描いた額が奉納されている。
吉野の山車(神奈川県相模原市緑区吉野)
明治後期に八王子より購入したと伝えられる。
かつては一メートル程のスサノオの人形が飾られた。
諏訪町の山車(東京都八王子市諏訪町)
江戸末期の建造と推測され、単層唐破風、梶のないチャンチキ方式の山車。
寺町より追分町が購入し、その後明治末に諏訪町に譲られた。
その際に加藤清正、通称富士見加藤の人形も譲られたが、焼失し現存しない。
尚、この山車以前にも山車を有し、ウズメの人形の頭部が残る。
伊奈本町の山車(東京都あきる野市伊奈)
単層唐破風、明治の頃に八木町の山車として原舟月作の天穂日命の人形をのせていた。
やがて大正3年に百円で山車が売却された。人形は売却されず、奇しくも焼失した。
平成27年(2015)に伊奈で人形と一本柱の機構が復元された。
津久井中野上町組の山車(神奈川県相模原市緑区中野)
明治10年(1877)頃から大正12年にかけて八日町一・二丁目の山車として雄略天皇の人形のせ曳かれていた。
大正13年に同地へ譲られる八日町の八の字を崩した模様があしらわれている。
彫刻が施された円形台座も残る。
越生新宿の山車(埼玉県入間郡越生町)
文政10年(1827)に建造。八日町三・四丁目から入間市金子もしくは青梅市小曾木に渡った後、
大正13年に同地に譲られる。人形の柱の持ち送り彫刻を舞台の柱に移植している。
大戸の山車(東京都町田市大戸)
足周りに八幡町の車大工棒兼の印が見られ、墨書きで八王子で使用されていたことが書かれている。
足周りより上は作り替えられている。
九沢の山車(神奈川県相模原市緑区大島)
車輪に八幡町の車大工棒兼の印がみられる。
錦西協力会の山車(東京都立川市錦町)
昭和6年に八王子の三崎町から譲られたといわれるが、三崎町では明治43年建造の二層鉾台の山車を昭和9年に現在の入母屋造りに改造して使用していたという定説から外れる。
浅川川原宿の山車(東京都八王子市東浅川町)
寺町、追分、久嶋(日吉)と渡った単層屋台は当地に渡るも現存しない。
久嶋以前には猿田彦の人形をのせており、その頭部と腕、岩座は日吉町にて現存する。
久保沢の山車(神奈川県相模原市緑区久保沢)
現存しない。八王子寺町より明治15年に七〇円で購入したという伝えが残る。
久保沢の朝比奈弥太郎の人形(神奈川県相模原市緑区久保沢)
寺町より山車とともに購入したという。
朝比奈弥太郎は讃岐の戦国武将もしくは水戸藩浪士を指すが、
小人を掌にのせた人形であったという伝えから察するに
曲亭馬琴の読本『朝比奈巡島記』を題材にしていたのではないかと思われる。
その場合は弥太郎とは別人で鎌倉武将の朝比奈三郎義秀だろう。