吉田兼好(1283―1352)は、鎌倉時代から南北朝時代の、歌人で随筆家である。俗名は卜部兼好(うらべのかねよし)で、法名は音読して兼好という。
彼は、鎌倉時代の末期から南北朝時代にかけての、官人・遁世者・歌人・随筆家で、日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者である。私家集に『兼好法師家集』がある。
『徒然草とは』
「徒然草(つれづれぐさ)」は、日本三大随筆の一つに数えられる名作である。書かれた時期や、他の2作品との違いを見ていく。
徒然草の作者は、鎌倉時代の末期に、朝廷に仕えていた「吉田兼好(よしだ けんこう)」という人物である。後に出家して、徒然草を書いたといわれている。
以前から書きためていた原稿を、出家後にまとめたという説もあるなど、徒然草が完成するまでの詳しい経緯は分かっていない。
題名の「徒然」は、特にやるべきことがなく、手持ち無沙汰な様子を表している。「草」は植物ではなく、「草子(そうし、ノートのようにとじてある冊子)」のことである。
『日本の三大随筆の一つ』
徒然草は、「方丈記(ほうじょうき)」「枕草子(まくらのそうし)」と並んで、日本の三大随筆と呼ばれている。
「方丈記」は、鎌倉時代前期の歌人「鴨長明(かものちょうめい)」が書いた作品である。「無常観(むじょうかん)」と呼ばれる仏教の考え方のもとに、不安定な社会情勢や、作者自身の人生について、簡潔な文章で書かれている。
「枕草子」は、平安時代中期の歌人・清少納言(せいしょうなごん)の作品である。一条天皇の后(きさき)「藤原定子(ふじわらのていし)」に仕えた女流歌人で、自身の好き嫌いや日々の出来事について、素直で鋭い視点で書き残している。
『徒然草の内容』
「日常生活を気の向くままに書いた作品」
徒然草は、兼好が日常生活の中で、見聞した出来事について、気の向くままに書いた作品である。
「つれづれなるままに」で知られる序段を含んで、全244段で構成されている。
各段のテーマは、人の生き方や人間関係、信仰など多岐にわたる。皮肉やユーモアを交えて書かれたストーリーは、人間味にあふれていて、現代社会に通用する教訓的な内容も少なくない。そのころの風習や人々の考え方がよく分かって、史料としての価値も認められている。
「徒然草で書かれる無常観とは」
兼好が生きた鎌倉時代の末期は、幕府の権威が失墜(しっつい)して、朝廷も皇位継承争いに明け暮れる不安定な時代であった。明日をも知れぬ日々が続いたことから、世の中に「無常観」が広がっていた。
「無常観」とは、つぎの二つの考え方に基づいた思想である。
・すべてのものは、絶えず変化する。
・この世のすべては幻で、仮の姿に過ぎない。
無常観には、「人も仮の姿であっていずれは死ぬので、未来のことをあれこれ考えても仕方がない」という、あきらめにも似た雰囲気が感じられる。
徒然草のストーリーにも、無常観がにじみ出ているが、兼好は無常観を前向きに捉えていたようである。
「先のことを嘆くよりも、今を大切にするべき」と説いた段もあって、現代を生きる人たちまでもが励まされる内容となっている。
「徒然草の代表的な段」
徒然草に書かれている、序段を除いた243の話の中から、代表的な段をいくつか見ていく。
例えば、第150段には、芸を身に付けたい人へのアドバイスが書かれている。
「上達してから人に見せようという気持ちでは、芸は身に付かない。どんな名人でも初心者からスタートしたのだから、下手でも恥ずかしがらず、上手な人を見習ってコツコツ努力するべき」と言っている。
そのほかに、第51段は、川から庭の池に水を引こうとした天皇のエピソードである。天皇は近隣の住民を大金で雇い、水車を造らせる。
住民は、何日もかけて水車を完成させたが、うまく動かず何の役にも立たない。そこで、水車に詳しい地域の人を呼んだところ、あっという間に完成して、無事に水を引くことができた。
「何事においても、その道に精通した人は尊いものである」と締めくくっている。
お金や時間をかければ何でもうまくいくわけではないと、諭しているようである。
1662(寛文2)年に、この地域を旱魃(かんばつ)が襲った。筑後(ちくご)川から取水するために、自動回転式の重連水車を設置したのが、約230年前だという。
以来、日本最古の実働する水車として、その名が知られる。現在、朝倉市には3つの重連水車があって、農地をうるおす面積は約35ヘクタールに及ぶ。
「吉田兼好は、どんな人物」
兼好は1283(弘安6)年ごろに、京都にある吉田神社の神職の家に生まれて、20歳くらいから朝廷に仕えた。
当時の朝廷で勢いのあった歌人「二条為世(にじょうためよ)」に和歌を学び、二条派の和歌四天王の一人と称されるほどの才能を発揮した。
30歳ごろに出家した後も、随筆や仏道修行のかたわら、和歌を詠んでいたようである。兼好の和歌は、「続千載和歌集(しょくせんざいわかしゅう)」をはじめとする勅撰(ちょくせん)和歌集に18首選ばれているほかに、個人の歌集「兼好法師集」も残っている。
「吉田兼好の生涯」
兼好の本名は「卜部兼好(うらべかねよし)」である。卜部家は、代々神祇官(じんぎかん)として朝廷に仕える家柄で、兼好も後二条天皇の外祖父の一族・堀川家の側近となって、天皇の身辺に仕えた。
有力公家(くげ)の側近に取り立てられるほどの才能があった兼好だったが、後二条天皇が亡くなると、堀川家も力を失い、出世の道を絶たれてしまった。
兼好が若くして出家した理由は定かではないが、個人の努力や才能だけではどうにもならない世の中に、疑問や諦めを感じたのかもしれない。
当時は不安定な世情から、兼好のように出家する人は珍しくなかった。ただし、ほとんどの人が特定の宗派に属して、寺院で修行するなかで、兼好は、どの宗派にも属さずに、気ままに過ごしている。
兼好は1352(文和元)年まで生存していたことが確認されているが、いつ、どこで亡くなったかは不明である。
吉田兼好は高い教養を持ち、政治の中枢にかかわることのできる立場であったが、若くして出家して、富や権力などとは無縁の生活を選んだ。
俗世から離れた立場で、ありのままを綴った兼好の徒然草は、後世の人にも受け入れられて、長く読み継がれている。
吉田兼好(1283―1352)は鎌倉・南北朝時代の歌人,随筆家で、俗名は卜部兼好(うらべのかねよし)で、法名は音読して兼好。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家で、日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者である。私家集に『兼好法師家集』がある。
人間の生き方について彼は語っている。
「大欲は無欲に似たり」