瀬戸内 寂聴(せとうち じゃくちょう・1922年―2021年)は、日本の小説家で、天台宗の尼僧である。
天台寺住職、比叡山延暦寺禅光坊住職、敦賀女子短期大学学長を務めた。
作家としての代表作は、『夏の終り』『花に問え』『場所』など多数がある。1988年以降は『源氏物語』に関連する著作が多く、新潮同人雑誌賞を皮切りに、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞などを受賞した。
彼女は、徳島県徳島市塀裏町(現・幸町)の仏壇店(瀬戸内商店)を営む三谷豊吉・コハルの次女、三谷晴美として生まれる。
体が弱く、本を読むのが好きな子供だった。後に父が従祖母・瀬戸内いとと養子縁組したために、晴美も徳島高等女学校時代に三谷から瀬戸内姓に改姓した。
東京女子大学在学中の1942年に、20歳で酒井悌(1913-1992 徳島市生)と見合いをして婚約した。1943年2月に結婚して、10月に夫の任地である北京に渡る。
1944年8月1日に、女の子を出産する。1945年6月に、夫が召集されて、8月の終戦と共に帰宅する。
1946年の8月に、一家3人で徳島に引き揚げて、夫の教え子の文学青年と不倫をして、夫に打ち明ける(晴美25歳 夫34歳 相手21歳)。
青年との関係を清算するために、1947年秋に一家3人で上京する。1948年に夫と3歳の長女を棄て、家を出て京都で青年と生活する。大翠書院などに勤めながら、初めて書いた小説「ピグマリオンの恋」を福田恆存に送る。
その後に、青年は自殺している。このころ、小野仁二郎とも恋愛関係にあった。
1950年に正式に離婚(長女とは後年出家後に和解したという)。上京して本格的に小説家を目指して、かつての本名であった三谷晴美のペンネームで少女小説を投稿して、『少女世界』誌に掲載され、三谷佐知子のペンネームで『ひまわり』誌の懸賞小説に入選する。
少女世界社、ひまわり社、小学館、講談社で少女小説や童話を書く。また丹羽文雄を訪ねて同人誌『文学者』に参加して、解散後は『Z』に参加する。
1956年に、処女作「痛い靴」を『文学者』に発表して、1957年「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞を受賞する。その受賞第1作『花芯』で、ポルノ小説であるとの批判にさらされて、批評家から、「子宮作家」とレッテルを貼られる。
その後の数年間は、文芸雑誌からの執筆依頼がなくなって、『講談倶楽部』『婦人公論』その他の大衆雑誌、週刊誌等で作品を発表する。
1959年から同人誌『無名誌』に、『田村俊子』の連載を開始する。並行して『東京新聞』に初の長編小説『女の海』を連載する。
この時期の小田仁二郎や、元の夫の教え子との不倫(三角関係)の恋愛体験を描いた『夏の終り』で、1963年の女流文学賞を受賞して、作家としての地位を確立する。
1966年に、作家の井上光晴と高松へ講演旅行して、恋愛関係になる。1973年に、井上との関係を絶つために修道女になろうとしたが、複数のキリスト教施設から断られる。
そこで出家しようとしたが、複数の仏教施設から断られる。そこでこんどは、今東光(僧侶・作家)に相談して、中尊寺で出家する。
しかし出家後も、肉食をしていたと語っており、また85歳のときに、48歳年下のIT企業経営者(既婚者)と恋愛関係にあったという。
以後、数多くの恋愛小説、伝記小説を書き人気作家となるが、30年間で、純文学の賞、大衆文学の賞ともに、受賞はなかった。
2021年11月9日6時3分、心不全のため京都市内の病院で遷化して、99歳没だった。
瀬戸内 寂聴(せとうち じゃくちょう・1922年―2021年)は日本の小説家で、天台宗の尼僧でもある。天台寺住職、比叡山延暦寺禅光坊住職、敦賀女子短期大学学長を務めた。
人間の生き方について彼女は語っている。
「もし、人より素晴らしい世界を見よう、そこにある宝にめぐり逢おうとするなら、どうしたって危険な道、恐い道を歩かねばなりません。そういう道を求めて歩くのが、才能に賭ける人の心構えなのです」