人間の生き方 | 作家 福元早夫のブログ

作家 福元早夫のブログ

人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

 唯川 恵(ゆいかわ けい・1955年― )は日本小説家で、本名は宮武泰子である。石川県金沢市桜町に生まれ、金沢市立兼六中学校石川県立金沢錦丘高等学校を経て、金沢女子短期大学(現金沢学院短期大学)を卒業した。

 

 その後、地元の銀行に就職して、短大専攻が情報処理だったので、コンピュータルームに配属されて、10年のOL生活を経験する。

 25、6歳からいろんな習い事などをするが、どれも長続きせず、続けていた日記から小説を書いてみようという気になったという。

 

 1984年の29歳の時に、『海色の午後』で集英社第3回コバルト・ノベル大賞を受賞して、作家デビューする。

 1997年に、ホラー的色調の濃い『めまい』、サスペンス小説『刹那に似てせつなく』で書評家らから高評価を得て注目された。

 数々の恋愛小説を発表後に、2001年の46歳のときに、『肩ごしの恋人』で第126回直木賞を受賞した。

 

 45歳で結婚と同時に、セント・バーナード犬を飼い始めて、2004年の、48歳の時に東京から軽井沢に移住する。

 48歳ごろから、「女性の人生を追ってみたい」という思いが強くなり、『淳子のてっぺん』は、田部井淳子をモデルに書き上げた長編小説としてその思いが込められている。

 因みに『淳子のてっぺん』は唯川の作品では初めて実在の人物をモデルにした作品である。

 

 田部井淳子(たべい じゅんこ・1939年昭和14年〉9月22日 ―2016年平成28年〉10月20日)は、日本登山家である。福島県田村郡三春町出身。既婚者で、一男一女がある。旧姓は石橋。

 女性として世界で初めて世界最高峰エベレストおよび七大陸最高峰への登頂に成功したことで知られる。

 

 彼女は、1939年9月22日、福島県田村郡三春町に生まれる。三春小学校卒業。小学4年生の時に、那須の茶臼岳に登ったことが(一説には福島・安達太良山とも)登山家への意識の芽生えになったと言われている。 

 福島県立田村高等学校卒業。 1962年昭和女子大学英米文学科卒業。日本物理学会で学会誌の編集に従事しながら、社会人の山岳会に入会して、登山活動に力を注ぐ。

 

 以後数年間は、谷川岳穂高岳でのクライミングに熱中した。1965年佐宗ルミエと共に、女性ペアによる初めての谷川岳一ノ倉沢積雪期登攀に成功した(12月19-20日)。

 登山・アウトドアの活動が趣味の田部井政伸と山で出会い交際、1967年に結婚した。

 

 1969年、「女子だけで海外遠征を」を合い言葉に、女子登攀クラブを設立した。翌年にアンナプルナIII峰(7555m)に遠征して登頂に成功した。

 1975年、エベレスト日本女子登山隊 副隊長兼登攀隊長として、女性で世界初の世界最高峰エベレスト8848m(ネパール名:サガルマータ、チベット名:チョモランマ)登頂に成功する。

 

 その後に、日本女性で登頂したのは難波康子(1996年)で、田部井が登頂成功した21年後である。

 ネパール王国から最高勲章グルカ・ダクシン・バフ賞、文部省スポーツ功労賞、日本スポーツ賞朝日体育賞

 1988年、福島県民栄誉賞第1号、埼玉県民栄誉賞、川越市民栄誉賞、三春町名誉町民、エイボンスポーツ賞を受賞した。

 

 1992年、1988年のマッキンリー、1991年のビンソンマシフに次いでエルブルス山に登頂し、女性で世界初の七大陸最高峰登頂者となった。

 同年文部省スポーツ功労賞を、1995年に内閣総理大臣賞を受賞した。1999年、旧ソ連7000メートル峰5座の登頂により、スノー・レオパードの称号を得た(日本女性初)。

 

 2000年3月九州大学大学院比較社会文化研究科修士課程を修了した。研究テーマはエベレストのゴミ問題だった。年7~8回海外登山に出かけるかたわら、山岳環境保護団体・HAT-J(ハット・ジェー)の代表を務めた。

 

 2016年7月23日、HAT-Jが主催する福島県の小学生を対象としたネイチャーカレッジにて福島県雄国山登山に参加、これが生涯最後の登頂となった。

 2016年7月27日、東日本大震災被災者への支援活動として東北地方の高校生らとともに富士登山に参加して、これが生涯最後の登山となった。7合目で断念したため登頂には至らなかった。

 

 2016年10月20日腹膜で死去。77歳没。

 2018年、第1回ネパール社会貢献者表彰を贈られる。2019年、田部井にちなんで、国際天文学連合は冥王星の山に「Tabei Montes」と命名する。

 

 エベレスト登山の費用は、当時、総額4300万円(自己負担150万円)。準備期間は実質4年である。

 荷物を軽くするために、乾燥食品を持参した。高所訓練中、隊長の久野英子が一時帰国、副隊長だった田部井に重圧がかかった。

 テントを飲み込んだ雪崩にあったにもかかわらず生還して、下山をせずにアタックすることを主張して、計画は続行された。

 

 頂上アタックのために,第四キャンプには登頂予定の田部井淳子と渡辺百合子が待機していたが、荷揚げを予定していたシェルパ六人が高山病のため荷揚げが出来ずに、酸素ボンベの不足が決定的になった。

 隊長の久野英子は、アタッカーとして田部井淳子を指名し登頂に成功した。

 

 企業からの献金を使わないという方針転換で行われたので予算が減少、当初2回アタックの予定が1回に変更になった。

 ヒラリー・ステップを見たときに、髪の毛が逆立ったと彼女は表現した。

 

  唯川 恵(ゆいかわ けい、1955年 - )は作家で、短期大学を卒業後に、10年のOL生活を経験、習い事をするが長続きせず、続けていた日記から小説を書く気になった。

 

 人間の生き方について彼女は語っている。

「最初の一歩を踏みだすこと。結果は後からついて来る。もちろん希望通りの結果とは限らない。でも、踏みださない人に、結果は決してやって来ない」