人間の生き方 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

  ガンディー(1869―1948)は、インドの政治指導者で思想家である。「マハートマー(偉大なる魂)」「ラーシュトラ・ピター(国の父)」「バープー(父)」などいくつかの呼称をもっていて、今日でもインドの大衆の尊敬と親愛の的となっている。

 

 彼は、インド西部のカーティアワール半島にあった、小藩王国ポールバンダルのディーワーン(宰相)の長男として生まれた。

 4年間のロンドン留学によって、法廷弁護士(バリスター)の資格を得て、1891年にインドに帰着した。

 

 1893年に、あるムスリム(イスラム教徒)商人の、訴訟事件の依頼を受けて、南アフリカのナタールに渡ったことで、彼の人生は、コペルニクス的転回を経ることになった。

 

 すなわち、そこに働くインド人の、年季雇用労働者たちの市民権獲得のための運動を指導することとなって、22年間ものここに滞在して、自ら「サティヤーグラハ(真理の把握)」と名づける大衆的な、非暴力的抵抗闘争を成功へと導いた。

 

 第一次世界大戦勃発 (ぼっぱつ)直後の1915年1月に、彼はイギリス経由でインドに戻った。

 この南アフリカ時代に書かれた『ヒンド・スワラージ(インドの自治)』(1909)という小冊子には、独自のインド文明観や、農村手工業の発展を強調するインド社会と経済論が展開されている

 

 帰国直後は、政治家のゴーカレーの助言で、インド内の政治や、社会状況の観察と検討に専念する。

 1917年には、ビハール州チャンパーラン県でのインジゴ(藍 ・あい)栽培小作人の争議を、翌1918年には、故郷グジャラート、アーメダバードの繊維工場労働者の争議を、独特のアヒンサー(非暴力)の原則を貫徹して解決した。

 アーメダバードの場合は、これ以後に、彼がしばしば用いた断食の行が初めて試みられた。

 

 彼の名を、インドにおける大衆的政治運動の指導者として揺るぎないものとするのは、第一次世界大戦後のローラット法反対、ジャリアンワーラーバーグ(アムリッツァル)虐殺事件糾弾、ムスリムのキラーファト(トルコのカリフ制)擁護を求める声などを背景に、1919から1922年に展開された、第一次サティヤーグラハ(非暴力的抵抗)闘争であった。

 

 ついで1930から1934年には、イギリス支配の一つの象徴としての、食塩専売の侵犯(いわゆる「塩の行進」)に始まる第二次サティヤーグラハ闘争を指導して、これを通じて、農民大衆を含むインド内のあらゆる階級や階層の人々を、未曽有 (みぞう)の規模で反英政治運動のなかに結集していった。

 

 彼はまた、この過程で、J・ネルーを先頭とする少数派の進歩的グループと、サルダール・パテールやR・プラサードら多数派の保守グループを、国民会議派という組織のなかで巧みに統合して、またビルラ財閥に代表されるような、インド民族資本の主流派を引き付けることによって、国民会議派を最大の大衆的民族運動組織として成長させた。

 

 ただ同時に注意すべきは、バールドーリ決議(1922)や、ガンディー‐アーウィン協定(1931)にみられるように、自ら理念とするアヒンサーの原則を絶対化するあまりに、大衆運動が高揚して、彼や国民会議派指導部の、指令の枠外に発展しようとすると運動の停止を命じて、全体としての大衆的反帝国主義闘争の進展を妨げることになった点である。

 

 彼はまた、労働者や農民の運動が、階級闘争的色彩を帯びることには徹底して反対した。先のアーメダバードでの労働争議の過程で、彼が指導する労使協調型のアーメダバード労働連盟(ALA)が結成されるが、これはその後、国民会議派主導の労働組合運動のモデルとなって、独立直前の1947年5月に発足したインド国民労働組合会議(INTUC)は、まさにこの路線上に位置づけられるものにほかならなかった。

 

 ガンディーは政治運動を進めるなかで(あるいはそれが停止された時点で)、インドの直面する多くの社会問題の解決に取り組んだ。

 たとえば1920年代から始まる全インド紡糸工連盟設立による農村手工業の発展や、1930年代からの不可触民(「ハリジャン―神の子」と彼はよんだ)解放の運動、ヒンドゥー・ムスリム間の統合、新教育(ナイー・ターリム)運動などがそれである。

 

 総称してこれらは、「建設的プログラム」とよばれた。これらの運動促進のために、新聞『ハリジャン』の発行(1933年2月)や、アーメダバードのサーバルマティやワルダーでのアーシュラム(道場)の建設を行っている。

 

 ムスリム連盟の指導者であるM・A・ジンナーとは鋭く対立して、そのパキスタン建国論に反対したが、結局1947年6月に出たマウントバッテン裁定に盛られたインドの分離独立案を、国民会議派指導部が承認するのを抑止できなかった。

 

 独立後の1948年1月に、狂信的ヒンドゥー主義者の凶弾によって倒れた。『自伝―真理の実験』(1927―1929出版)と題する半生記は、試行錯誤の過程を経つつ真理への接近を図ろうとする「マハートマー」の人間的な姿をよく伝えている。

 

 ガンディー(1869-1948)は、インド独立運動の指導者で、非暴力と不服従の戦術を展開して、第二次大戦後に独立を達成した。

ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の融合を追求したが、ヒンドゥー狂信者に暗殺された。

 

 人間の生き方について彼は語っている。

「あなたの夢は何か、あなたが目的とするものは何か、それさえしっかり持っているならば、必ずや道は開かれるだろう」