人間の生き方 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

 ウィリアム・スミス・クラーク1826年1886年)は、アメリカ人教育者で、化学植物学動物学の教師であって、農学教育のリーダーである。

 日本では、クラーク博士として知られる。日本における「お雇い外国人」の一人である。

 

 1876年(明治9年)に、札幌農学校(現・北海道大学)が開校する。クラークは、初代教頭で、同大学では専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。

 

 この他に、学生達に聖書を配って、キリスト教についても講じた。のちに学生たちは、「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名して、キリスト教の信仰に入る決心をした。

 

 彼は、1826年7月31日に、医師であったアサートン・クラークを父として、ハリエットを母として、マサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれる。1834年ころに、一家はマサチューセッツ州のEasthamptonに引っ越した。ウィリストン神学校で教育を受けて、1844年にアマースト大学に入学する。1848年に同大学卒業した。

 

 1848年から1850年に、ウィリストン神学校で化学を教えて、化学と植物学を学ぶべく、ドイツのゲッティンゲン大学へ留学する。

 1852年に、同大学で化学の博士号取得する。社交的で誰からも好かれて、成績が非常に優秀であったので、同年に、20代にして教師就任の要請を受けて、アマースト大学教授となる。

 

 分析化学と応用化学を担当して教て、これは1867年まで担当する。また、化学だけでなく、動物学と植物学も教えて、計3つの専門を教えるという活躍をした。動物学は1852年から1858年に、植物学は1854年から1858年に担当した。

 

 すぐにクラークは、農業教育を推進しはじめる。というのは、ゲッティンゲン大学で学んでいた時期に、すでにそれに着目していたのである。

 1853年には、新しく設立された科学と、実践農学の学部の長になったが、これはあまりうまくゆかずに、1857年には終了した。

 

 これによってクラークは、新しい農学教育を効果的に行うためには、新しいタイプの教育組織が必要なのだということに気付いた。

 

 マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)の第3代学長に就任した。初代と2代学長は、開学前に辞任しているために、クラークが実質的な初代学長である。

 1860年から1861年にHampshire Board of Agricultureの長になって、1871年から1872年も再度就任する。

 

 途中で、南北戦争に参加することになって、クラークの学者としてのキャリアは、一旦中断する。

 アマースト大学で教えていた時期に、学生の中に、同大学初の日本人留学生がいた。それは新島襄で、同志社大学の創始者である。

 任期中には新島襄の紹介によって、日本政府の熱烈な要請を受けて、1876年(明治9年)7月に札幌農学校の教頭に赴任する。

 マサチューセッツ農科大学の、1年間の休暇を利用して、訪日するという形をとった。

 

 クラークは、マサチューセッツ農科大学のカリキュラムを、ほぼそのまま札幌農学校に移植して、諸科学を統合した全人的な言語中心のカリキュラムを導入した。

 明治政府開拓使)は、欧米の大学と遜色のないカリキュラムを採る札幌農学校に、国内で初めて、学士の称号を授与する権限を与えた。

 

 札幌農学校におけるクラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語で「President(校長)」と表記することが、開拓使によって許可されて、ほとんど実質的には、クラークが校内の全てを取り仕切っていた。

 

 クラークは自ら模範となって、学生を鼓舞して、激励するだけでなく、マサチューセッツ農科大学の教え子から、生え抜きを後継者に据えて、規律及び諸活動に厳格かつ高度な標準を作り出して、学生の自律的な学習を促した。

 

 クラークは、9ヶ月の札幌滞在の後に、翌年の1877年5月に離日した。帰国後は、マサチューセッツ農科大学の学長を辞めて、洋上大学の開学を構想する。

 だが資金が集まらずに頓挫して、生活費に困るようになっていたときに、出資者を募って知人と共に鉱山会社「クラーク・ボスウェル社」を設立して、7つの鉱山を買収した。

 

当初 は大きな利益を上げたが、その知人が横領を繰り返して、果てに逃亡して、設立から1年半で破産し、負債は179万ドルだった。

 叔父から破産をめぐる訴訟を起こされて、裁判で罪に問われることはなかったが、晩年は心臓病にかかって寝たり起きたりの生活となった。1886年3月9日、失意のうちに59歳でこの世を去った。

 

 彼は帰国した後も、札幌での生活を忘れることはなく、死の間際には「、札幌で過ごした9ヶ月間こそ、私の人生で最も輝かしいときだった」と言い残したと伝えられる。

 彼の墓はアマースト町ダウンタウン内にあるウエスト・セメタリーにある。

 

 クラーク(1826年1886年)は、アメリカ人教育者で、日本ではクラーク博士として知られる。

 

 彼は人間の生き方についてかたっている。

「青年よ、大志を抱け!それは金銭に対してでも、自己の利益に対してでもなく、また世の人間が名声と呼ぶあのむなしいものに対してでもない。人間が人間として備えていなければならぬ、あらゆることをなし遂げるため、青年よ大志を抱け!」