人間の生き方 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

 フーゴ・ラウレンツ・アウグスト・ホーフマン・フォン・ホーフマンスタール(1874年― 1929年)は、オーストリア詩人作家劇作家で、ホフマンスタールとも表記される。

 

 ウィーン世紀末文化を代表する青年ウィーンの一員であって、印象主義的な新ロマン主義の代表的作家である。

 

 ホーフマンスタール家は、チェコ出身のユダヤ系の商人であるイザーク・レーフ・ホーフマン(フーゴの曽祖父)が、貴族の称号を受けて、地名風のホフマンの谷)を名乗るようになったことに始まる家系なので、「ホーフマンシュタール」は誤りである。

 

 彼は1874年に、ウィーンの富裕な商家の家系に生まれる。父は銀行の役員で,彼はその一人息子であった。

 もともとユダヤ系の家系であったが、祖父はイタリア人の女性と、父はドイツの農家の女性と結婚していて、フーゴ自身にはユダヤ、イタリア、ドイツの血が流れている。

 

 祖父が、ミラノの伯爵の娘と結婚する前に、カトリックに改宗していた。彼は小学校には一度も通わず、幼年期から家庭教師がついて、ギリシアラテン文学を始め、中世ルネサンス文学にいたるヨーロッパの古典文学を学んだ。

 

 ギムナジウム時代から詩作を始めて、早くも16歳の頃からLoris、Theophil Morrenなどの筆名を用いて、戯曲や随筆を発表して文壇を驚かせた。

 

 このときのホーフマンスタールの詩について、ヘルマン・バールは詩の作者はてっきりフランス人か、さもなければ長い間パリで暮らした40代か50代のウィーン人だと思っていたので、まだ16歳である彼に会ったとき、衝撃を受けてほとんど言葉を失ったという。

 

 また、アルトゥル・シュニッツラーも、同じころ彼に出会い、生涯で初めて間違いなく天才だといえる人に遭遇したとシュテファン・ツヴァイクに語っている。

 なお、シュニッツラーはホーフマンスタールよりも12歳も年上であったが、2人は出会った瞬間から不思議なほど気が合い、2人で一緒に自転車でイタリアやスイスまで長旅をしたという。

 

 ホーフマンスタールは、シュニッツラーの戯曲『アナトール』(1890年)の紹介のため、次のような短い詩も書いている。

 

つまるところ私たちが演じていることはお芝居

心の断片のお芝居

早熟で繊細で悲しい

魂の喜劇

 

 このフレーズは当時から何度も繰り返し引用されてきた。

 

 彼は1891年に、芸術至上主義を掲げる5歳年上のシュテファン・ゲオルゲと知り合って、その多大な影響を受け、ゲオルゲの主宰する『芸術草紙』の寄稿者となった。

 

 パリステファヌ・マラルメの詩のサークル出身であったゲオルゲは、彼の同級生たちを喜ばせるために、使いを彼のギムナジウムの教室に派遣して、彼に赤いバラの花束を贈った。

 

 1892年に、彼はウィーン大学に入学して、当初は法律を学んだが、後にロマンシュ諸語、特にその詩法の研究に転じた。

 彼はドイツ語のほかフランス語イタリア語英語を話した。

 

 詩は典雅な形式をもつ象徴主義的で唯美主義的な作品もあれば、精妙な随筆・文芸論を書くエッセイストでもあり、美しい韻文劇の書き手でもあった。

 ことに『痴人と死』などの、世紀末的な雰囲気をたたえた韻文劇で名声を獲得した。

 

 また、詩論を書き、古典古代悲劇や中世の伝説を翻案して、現代性を付与するなど、その活躍は多方面にわたった。

 青年期の彼は、シュニッツラーやゲオルゲ、リヒャルト・ベーア=ホフマンといった人々と、カフェ・グリーンシュタイドルに集い、定期的に会合をもった。

 

 27歳のときに、世紀転換点における芸術家の精神的な危機を、架空の手紙の形で記した『チャンドス卿の手紙』(1902年)を発表して、これは近代批評の先駆的作品となった。

 この頃彼は、銀行の頭取の娘、ゲルトルート・シュレジンガーと結婚して、ウィーン南方のローダウンで暮らしはじめた。

 

『チャンドス卿の手紙』は彼自身の転機ともなり、これ以降、「祝祭」としての演劇を唱え、ソフォクレスエウリピデスなどの古典劇に洗練された美意識にもとづく近代的解釈を加え、優れた翻案・改作の数々を発表していった。

 

 代表作にギリシア古典の翻案劇『エレクトラ』(1903年)や『戯曲 オイディプスとスフィンクス』(1906年)、中世宗教劇の『イェーダーマン』(1911年)がある。

 ホーフマンスタールはまた、1920年にはじめて開催されたザルツブルク音楽祭を発案したことでも知られる。

 

 このときに、『イェーダーマン』(リヒャルト・シュトラウス音楽、マックス・ラインハルト演出)が、ザルツブルク大聖堂正面前を舞台にして上演された。

 彼はまた、リヒャルト・シュトラウスと協力して『薔薇の騎士』(1911年)、『気むずかしい男』(1921年)などのオペラ創作も手がけた。

 

 彼は、社会や政治に対しては終始一定の距離をとる姿勢を貫いており、当時のウィーンにおいて繰り返し現れる反ユダヤ主義的言説やみずからの出自であるユダヤ性については、それがまるで存在しないかのように行動した。

 

 そしてまた、生涯を通じて熱烈な愛国者でもあった。1912年、ホーフマンスタールは一度は称賛していたイタリアの詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオが、オーストリア=ハンガリー帝国と皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を攻撃したことで、彼と絶交している。

 

 第一次世界大戦後に、1918年のオーストリア=ハンガリー帝国崩壊に大きな精神的ショックを受けて、晩年は過去の文化や伝統に結びついた文化評論や書物の編集に励んだ。

 

 1929年、卒中により死去した。息子フランツが、拳銃自殺をしたわずか2日後の、長男の葬式の日に、愛用の肘掛け椅子にすわったまま亡くなったという。

 

 ホフマンスタール(1874―1929)はオーストリアの詩人劇作家小説家,随筆家である。

  17歳で詩劇『きのう』(1891) を発表して,以後『早春』(92) などの抒情詩や『痴人と死 (93) などの抒情的小戯曲を発表した。優雅な古典的形式と、世紀末的な憂愁と無常感で、独自の世界を展開した。

 

 人間の生き方について彼は語っている。

「労働はつねに人生を甘美にするが、誰でも甘いものが好きだとは限らない」