人間の生き方 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

 ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ1746年1827年)は、スイスの教育実践家、シュタンツ、イヴェルドン孤児院の学長である。

 

 フランス革命後の混乱の中で、スイスの片田舎で、孤児や貧民の子などの教育に従事した。その活躍の舞台としては、スイス各地にまたがるノイホーフ、シュタンツ、イヴェルドン、ブルクドルフなどが有名である。

 妻はアンナ・シュルテス(1764年に結婚)で、息子および、孫にゴットリープがいる。

 

 ペスタロッチは、イタリア北部のロンバルディア州ソンドリオ県にあるキアヴェンナにルーツを持つイタリア系新教徒医師の3人兄妹の真ん中の子として、チューリヒで生まれた。

 1751年に父が病死して、1764年チューリヒ大学に入学した。

 

 チューリヒ大学を卒業したペスタロッチは、貧農を救助するために農業に携わり、母方の叔父からの援助で、農場ノイホーフを創設する。

 

 だが、後に事業に失敗して、1774年に孤児や貧困の子供のための学校を設立した。1800年にスイス政府の依頼で、全寮制の校長に就任した。

 

 彼は基礎的なものから高度なものへという、直観教授で、労作教育の思想は、当時のヨーロッパでは高い知名度を持ち、多くの期待を寄せられた。

 

 特に当時のドイツからは様々な人物が、教えを乞いに彼のもとを訪れた。なかでも、フリードリヒ・フレーベルヨハン・フリードリヒ・ヘルバルトが、その教育史上の意義としては群を抜いて有名であり、また重要である。

 

 ペスタロッチの教育の実践は、主として初等教育段階のものであったが、それをさらに幼児教育へと応用、展開したのはフレーベルの功績である。

 また、大学教育の場での教育学へと、それを整理して、発展させたヘルバルトの功績も大である。

 初等教育のやり方の礎は、ほとんど彼によって築かれたといってもよい。

 

 著書に、『隠者の夕暮』(1780年)、『リーンハルトとゲルトルート』(1781年 - 87年)、『ゲルトルートはいかにその子を教えたか』(1801年)、『白鳥の歌』(1826年)などがある。

 

『隠者の夕暮』は、そのタイトルから晩年の遺作のように思われがちだが、初期の教育実践で失敗した後の自己告白である。

 

 また、同時代のイギリスで、工場経営者ながら、幼少の子供の工場労働を止めさせ、性格形成学院を設立した、空想的社会主義者であるロバート・オウエンも、彼の学校を訪問したことがある。

 

 ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチは、日本の教育界では、盛んに研究された外国の教育思想家、実践家のトップである。

 教育学者の長田新は、ペスタロッチの研究者かつ信奉者で、没後遺言により、長田の墓はスイスのペスタロッチの墓の傍らに作られた。

 長田の弟子である荘司雅子も、フレーベルの研究者である。

 

「子どもの権利条約」の元になる子どもの権利という概念を、第二次世界大戦のさなかに、ポーランドのワルシャワゲットーの中で、ユダヤ人の孤児たちの孤児院院長をしながら提唱したヤヌシュ・コルチャックは、熱烈なペスタロッチ信奉者でもあった。

 

 生涯で最初の国外旅行にスイスにとでかけて、ペスタロッチの活躍の舞台を訪ねて回ったり、彼の主著をもじって、自著のタイトルにしたりした。

 

 岡山県苫田郡鏡野町は、知・徳・体の調和的発達と、弱者への配慮ある教育を提唱したペスタロッチに着目して、「日本のペスタロッチタウン・鏡野」を宣言した。

 ペスタロッチ像を建て、町立図書館をペスタロッチ館と名づけ、その思想の普及と継承に努めている。

 

 ペスタロッチの像を建てている小中学校も少なくはない。ただ、その著書や参考書は、近年出版事情もあって、入手できるものが僅かになっている。

 

 興亜工業大学(1942年、現在の千葉工業大学)には、ペスタロッチの教育思想の影響が色濃く反映されている。

 

 ペスタロッチ(Ⅰ746―1827) は、スイス教育家で、ルソーカント影響を受けて、孤児教育・小学校教育に生涯を捧げて、自然に即した人間形成原理とし、人間性の覚醒天賦の全才能の調和的発達を目的とした。

 

 人間の生き方について彼は語っている。

「人間は、日常従専している労働のうちに自分の世界観の基礎を求めなくてはならない」