ジョージ・バーナード・ショー(1856年―1950年)は、アイルランド出身の文学者、脚本家、劇作家、評論家、政治家、教育家、ジャーナリストである。
若年から、「ジョージ」のファーストネームを毛嫌いしており、多くの著作はこれを省いたバーナード・ショーの名で執筆しているため、このジョージ抜きの名でも知られている。
ヴィクトリア朝時代から近代にかけて、イギリスやアメリカ合衆国など、英語圏の国々で多様な功績を残した才人として知られている。
ショーの功績の中でも、特に文学者と教育家としての活躍が有名である。イギリス近代演劇の確立者として精力的に作品を書き続けて、94歳で没するまでに53本もの戯曲を残し、「他に類を見ない風刺に満ち、理想性と人間性を描いた作品を送り出した」として1925年にノーベル文学賞を受賞した。
アイルランド人のノーベル文学賞受賞者としては、文学者ウィリアム・バトラー・イェイツに続いて2人目となった。
映画文化の発展にも貢献して、『ピグマリオン』はアメリカのハリウッドで映画化されて第11回アカデミー賞の脚色賞を授与された。
教育家としては、自身は大学などの高等教育を受けなかったが、社会科学の発展を目指してロンドン大学内の教育機関ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の創設に尽力して、経済学の発展に重要な足跡を残した。
政治家としては一貫して進歩主義に属して、穏健な社会主義(社会民主主義)を掲げ、後に労働党の前身となるフェビアン協会の会員として行動した。
労働者を搾取する近代イギリスの行き過ぎた資本主義や、退廃的な貴族趣味を嫌い、男女平等、土地改革、労働者保護などの社会改革や、菜食主義に代表される健康的な食生活を信念としていた。
フェビアン協会の為に数多くの文章や演説を通じた政治運動を展開したが、表立って権力を握る事は嫌っていて、選挙への立候補については幾度も固辞している。
例外的に、ロンドンメトロポリタン行政区議会から、セント・パンクラス地区 (en) 代表の区議会議員に選出された際には引き受けているが、フェビアン協会も含めたどの党や政治団体にも所属しない無所属議員として活動している。
晩年には文学、教育、政治などでの業績を讃えてイギリス王室からナイト称号の授与が提案されたが、これを拒否している。
芸術家として、またリベラリストとして、自由主義や民主主義を基本的に肯定したが、その欠点である衆愚政治や退廃に無批判ではなく、ファシズムやソ連型社会主義など独裁制や全体主義に理解を示す発言を行う場合もあった。
人間社会に対する厭世主義から、「無価値な人間の処分」をしばしば唱え、その観点から人種主義や優生学も肯定していた。
後にイギリスが第二次世界大戦で枢軸国陣営と戦い、冷戦ではアメリカ合衆国に協力してソビエト連邦と対峙する中で、こうした主張が批判される場合もあった。
持論である菜食主義による健康な生活もあってか長命を保ち、90歳を超えても健康的な生活を謳歌していた。
その死も病や老いではなく、自宅で庭の手入れをしていて、梯子から転落して骨折した際に受けた手術の経過が悪く、腎臓浮腫を患ったためであった。
バーナード=ショー(1856―1950)は、アイルランド出身の劇作家・評論家・社会思想家で、イプセンの影響のもとにイギリス近代劇を創始して,多くの戯曲を発表,また美術・音楽・演劇批評家として独特の皮肉で社会の因襲を批判した。
人間の生き方について彼は語っている。
「経済は大半の人生をつくる術である。経済の愛はあらゆる美徳の根源である」