人間の生き方 | 作家 福元早夫のブログ

作家 福元早夫のブログ

人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

 魯迅(ろじん ・1881―1936)は、中国の文学者、思想家である。9月25日に、浙江(せっこう)省紹興(しょうこう)で生まれた。

 本名は周樹人、字(あざな)は予才、ほかに迅行、唐俟、巴人などの、数十の筆名を用いた。

 

 生家は、祖父が知県も務める中地主だったが、祖父が科挙の不正事件で入獄し、父も病死して、にわかに没落したために、彼は長子として生活の苦労も体験した。

「世の中の人々の真の顔を見た」と自らいっている。

 

 1898年に、南京(ナンキン)の江南水師学堂に入学したが、内容に不満で退学し、江南陸師学堂付設の鉱務鉄路学堂に入学した。ここで、厳復(げんふく)訳による西洋近代思想や、変法派系の新聞、雑誌に触れた。

 

 1902年に(明治35)官費留学生として日本に派遣されて、弘文(宏文)(こうぶん)学院を経て仙台医学専門学校に入学した。

 このころ思想的には、革命派の立場にたち、清(しん)朝打倒を目ざす光復会にも加入した。

 

 仙台医専在学中に、志を文学に転じて退学して、東京に戻って企画した文学運動の雑誌『新生』は、未成に終わったが、そこに発表するはずであった内容は、『河南』(1907年中国人留学生が東京で創刊した雑誌)に掲載した「文化偏至論」「マラ詩力説」「破悪声論」(いずれも1908)など一連の論文にみられる。

 

 強烈な個性と反逆精神をもつ詩人=精神界の戦士を顕彰して、中国にもその誕生を促し、その叫びによって民衆の心を燃えたたせる、というのが、当時の彼の描いた中国変革のイメージであった。

 

 民衆の問題を中心課題としているとはいいながら、具体的な運動論も組織論ももたぬ抽象的、観念的なものであった点で、当時の革命派の思想と、正負両面の特徴を共有していたといえる。

 

 これらの論文と並行して、弟の周作人(しゅうさくじん)とともにロシア、東欧の短編の翻訳『域外小説集』(1909)も出版したが、いずれもさしたる反響もないまま1909年に帰国した。

 

 帰国後、杭州(こうしゅう)、紹興で教師をするうちに、辛亥(しんがい)革命(1911)を迎え、新政府に教育部員として参加し、北京(ペキン)に移った。

 

 しかし、辛亥革命後の現実は、彼の革命像を大きく裏切るもので、袁世凱(えんせいがい)の反動のもと、「寂寞(せきばく)」の時期を送る。

 

 やがて『新青年』を中心に起こった文学革命にも当初は消極的だったが、1918年に、友人の勧めもあって『狂人日記』を発表した。

 以後、『阿Q正伝(あキューせいでん)』(1921~1922)等、のちに『吶喊(とっかん)』(1923)、『彷徨(ほうこう)』(1926)にまとめられた小説を発表した。

 

 これは文学革命に実質を与え、中国近代文学の成立を示すものであるとともに、彼にとっては、中国社会と民衆のあり方を振り返り、青年時代の革命像を再検討する意味をもったものでもあった。

 

 また、一方で鋭い社会批評と文化批評を込めた「雑文」を執筆した。雑文はやがて著作の大きな部分を占め、中国文学のなかでも独自の一ジャンルとなることになる。

 この時期には、北京大学その他で『中国小説史略』(1923~1924刊)を講じた。これは小説史という新しい分野を開拓したもので、小説史研究の古典とされる。

 

 1925年、北京女子師範大学の改革をめぐって新旧両派の衝突した「女師大事件」では、進歩派の学生・教員とともに軍閥政府に抵抗した。

 そのためいったんは教育部員を罷免されたが、平政院に提訴して勝利を収めた。

 

 その一方で、とくに自己の内面の矛盾に光をあてた散文詩集『野草(やそう)』(1927)を書いた。

 彼は留学中に一度帰国して、朱安(しゅあん)(1878―1947)と古い型の結婚をしていたが、このころ女師大の学生だった許広平(きょこうへい)と出会い、しだいに愛が生じた。

 

 1926年夏に、厦門(アモイ)大学に移ったが、その空気に不満で1927年の初めに、国民革命の根拠地だった広東(カントン)に移り、ここで四・一二事件(上海(シャンハイ)クーデター)を体験して、思想的にも大きな転機となった。

 

 1927年の秋に上海へ移り、このときから許広平と同居して、1929年に1子海嬰(かいえい)(1929―2011)をもうけ、死まで上海に住んだ。

 上海では、国民革命の挫折(ざせつ)を機に、プロレタリアートの意識にたつ「革命文学」を唱える創造社、太陽社から、過去の暗黒しかみることのできぬ小ブル文学者と非難を受けたが、逆に、彼らが文学に対してのみならず革命に対しても安易であることをついて「革命文学論戦」を展開した。

 

 一方で、自らマルクス主義芸術論やソビエト文学を精力的に翻訳した。やがて創造社等の側にも、中国共産党の指導もあって態度に変化が生まれ、1930年に左翼作家連盟の結成に至ると、その中心的人物となり、国民党政府の弾圧やその御用文人と非妥協的に論争した。

 

 その一方で、左翼内部の弱点も見逃さない彼の眼(め)とその発言は、若い党員文学者の一部には理解しがたいものもあったらしく、彼らとの間にはある種の摩擦もあった。

 1936年に、抗日統一戦線をめぐって周揚(しゅうよう)らとの間で展開した「国防文学論戦」などもその表れであった。

 

 芸術にも早くから関心をもっていたが、1931年に内山完造(うちやまかんぞう)の弟で嘉吉(かきつ)(1900―1984)を招いて、木版画講習会を開いたのをはじめとして、若い木版作家を養成し、中国現代版画の基礎を築いた。

 

 作品のおもなものには、ほかに、回想録風の作品集『朝花夕拾』(1928)、神話・歴史に題材をとったユニークな短編集『故事新編』(1936)、許広平との往復書簡集『両地書』(1933)、雑文集多数がある。

 

 また翻訳にも力を注ぎ、全著作にほぼ匹敵する分量の翻訳がある。翻訳は、日本文学、ロシア文学ほか多岐にわたり、日本文学では森鴎外(もりおうがい)、夏目漱石(なつめそうせき)、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)などのほか、厨川白村(くりやがわはくそん)、片上伸(かたかみのぶる)などのものが多い。

 

厨川白村(くりやがわ はくそん、1880年1923年)は、日本の英文学者文芸評論家で、本名は辰夫である。

『近代の恋愛観』がベストセラーとなって、大正時代恋愛論ブームを起こした。夏目漱石虞美人草』の小野のモデルとも言われる。

 

片上伸(かたがみ のぶる、1884年― 1928年)は、日本文芸評論家ロシア文学者である。初期は「天弦」の号で執筆活動をしていたので、片上天絃(片上天弦)の名でも知られる。

 

 魯 迅(ろ じん・1881年― 1936年)は中国小説家翻訳家思想家で、中国で最も早く、ヨーロッパの技法を用いて小説を書いた作家である。

 作品は中国だけでなく、日本をはじめに東アジアで広く愛読されている。

 

 人間の生き方について彼は語っている。

「隠居することも飯を食う道だ。仮に飯を食うことができなければ、<隠れ>ようにも隠れきれるものではない」