人間の生き方 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

 ワーズワース(1770―1850)はイギリス詩人で、19世紀前半のロマン派の代表的詩人の1人である。

 イギリスの北部カンバーランドの、コカマスに弁護士の父ジョンと、母アンの五人兄妹の次男として生まれて、その生家は、今日では記念館として公開されている。

 

 彼は1778年に母を、その5年後には父を失う。1778年ホークスヘッドの歴史の古いグラマー・スクールに入学して、下宿で賄いをしていたアン・タイスンに、母親がわりのめんどうをみてもらった。

 

 また、ケンブリッジのエマニュエル・コレジ出身の、新任の若い校長ウィリアム・テイラーによって、詩作の手引きを受け、大自然のなかに生きる生活とともに、自国の詩や小説のほかに、『ドン・キホーテ』や『千夜一夜物語』などによって空想の世界を広めた。

 

 1787年7月に、ケンブリッジのセント・ジョンズ・コレジに特別免費生として入学する以前に、1000行余の習作「エスウェイトの谷間」を書いていた。

 

 大学では、華美な風潮や激しい競争意識に反発しながら、古典文学やイタリア語の学習に精励するとともに、1790年夏から秋にかけて、当時ようやくヨーロッパに高まり始めたアルプス熱に刺激されて、友人ロバート・ジョーンズとアルプスへ徒歩旅行をする。

 

 1791年1月、学士号取得後、ただちにロンドンに上京、さらに11月末にはフランス革命で騒然たるパリに滞在、年末にはオルレアンに移り、5歳年上の女性アネット・バロンに出会い、1792年12月には彼女との間に女児キャロラインが誕生する。

 

 その間、ブロア滞在中に将校ミシェル・ボーピュイから、革命の政治的・思想的意義を教えられて大いに共鳴したが、経済的事情で12月に一時帰国して、1793年2月英仏の戦争宣言で渡仏の機会を失う。

 

 この年に、『夕べの散歩』『叙景的小品』の二冊の詩集を出版したほか、「ソールズベリ平野」の草稿を書く。

 

 1795年に、知人のレズリー・カルバートが亡くなり、900ポンドの遺贈を受けて、当面の経済的見通しがつき、妹ドロシーとイギリス南部のドーセットのレイスダウンに落ちついて、読書と詩作のほか、S・T・コールリッジ、ロバート・サウジーのほか急進思想家ゴッドウィンらと交友した。

 

 1796年には悲劇『辺境の人々』で、素材的にはシラーの『群盗』に対応し、思想的にはゴッドウィンの理性論の超克を目ざした。

 さらに、当時のドイツ文学に刺激されたバラッド形式への関心を踏まえて、コールリッジとともに創作した物語詩をまとめた『抒情民謡集(リリカル・バラッズ)』を1798年9月に500部出版したが、予想以上の好評を博した。

 

 1801年1月には改訂増補して2巻本にして出版、またその「序文」は擬古典主義に対して新しい詩歌の素材・主題・文体ならびに詩人の使命などを論じて、イギリス・ロマン主義文学の指標となる。

 

 1798年秋から翌年の春にかけて、妹ドロシーとドイツのゴスラーに滞在中に着手された長編自伝詩は、1805年に完成したが、その後大幅な加筆訂正ののちに、没後3か月して、『序曲』と題して出版された。

 

 19世紀には比較的短い作品が愛読されていたが、20世紀に入って厳密な本文研究も進み、この作品がワーズワース文学の核心とみなされるようになった。

 

 1799年ドイツから帰国後、10年近く住んで詩作に没頭したグラスミア湖畔のダブ・コテジは、今日関係資料を豊富に展示する記念館として親しまれている。

 

 1802年5月にロンズデール侯が亡くなり、その嗣子(しし)からワーズワース家所有地の代価として8500ポンドの支払いを受け、8月カレーに渡り4週間滞在して、アネット・バロンと娘キャロラインに会い、10月4日メアリ・ハッチンスンと結婚し、のち5人の子供が生まれた。

 

 1807年の『二巻本詩集』は、比較的短い優れた作品を集めているが、とりわけ最後の「霊魂不滅を暗示するオード」は、叙情性と深い哲学的認識とを融合させた傑作である。

 

 1804年、ボナパルトが皇帝に即位するに至り、フランス革命への期待は完全に失われて、1809年にはスペインを専制下に治めるナポレオン体制を攻撃するパンフレット、『シントラ協定論』を出版した。

 

 1813年5月に、ダブ・コテジからやや離れたライダル・マウントに移り、ここで1850年4月23日80歳の生涯を終え、グラスミアの教会墓地に埋葬された。

 

 その間、1814年には長編哲学詩『逍遙(しょうよう)』、1816年にはワーテルローでナポレオン軍に大勝した記念に『感謝のオード』、その後、数冊の詩集のほか、1820年ごろから選集が出版され始め、1843年には桂冠(けいかん)詩人に選ばれている。

 

 その詩の特徴は、田舎(いなか)の清純質朴な子供や大人、不幸な境遇の女性を多く取り上げ、簡潔な筆致で描くとともに、外界と内面との照応を幻想的に叙述して、対象の核心に迫る深味のある表現に達している。

 

 ウィリアム・ワーズワス(1770年1850年)は、イギリスの代表的なロマン派詩人で、湖水地方をこよなく愛し、純朴であると共に、情熱を秘めた自然讃美の詩を書いた。長命で、桂冠詩人となり、80歳で亡くなった。

 

 人間の生き方について彼は語っている。

 「自然はその美しき創造物に、わが心に流るる人間の魂を結びつけたり」