中島敦 (なかじま-あつし・1909-1942)は、昭和の時代の前期の小説家で、漢学者の中島撫山(ぶざん)の孫である。
昭和8年に横浜高女の教師となる。持病の喘息(ぜんそく)にくるしみながら、創作にはげんだ。
昭和16年に、南洋庁国語教科書編集書記として、パラオに赴任して、17年に帰国した。このころから、「山月記」と「光と風と夢」の作品がみとめられる。だが、同年の12月4日に死去した。34歳で、遺稿に「李陵」がある。東京出身で東京帝大卒。
『山月記』(さんげつき)は、中島敦の短編小説である。1942年(昭和17年)に発表された中島のデビュー作である。
中国の唐の時代に、詩人となる望みに敗れて虎になってしまった男・李徴が、自分の数奇な運命を、友人の袁傪に語るという変身譚である。
清朝の説話集『唐人説薈』の中の、「人虎伝」(李景亮の作とされる)が素材になっている。
『山月記』の題名は、虎に変わった李徴が吟じる詩の一節である「此夕渓山対明月」から取られている。
初出時は、他1篇「文字禍」と共に「古譚」の題名で総括され、『文學界』1942年2月号に掲載された。
文部科学省検定済教科書である『国語』の題材にしばしば採用され、中島の作品の中で知名度が高い。野村萬斎によって舞台化された。
〚山月記〛のあらすじである。
中国の唐の時代である。隴西の李徴は若くして科挙試験に合格する秀才であった。だが、非常な自信家で、俗悪な大官の前で、膝を屈する一介の官吏の身分に満足できずに、詩人として名声を得ようとした。
しかし、官職を退いたために、経済的に困窮して挫折する。妻子を養う金のために、再び東へ赴いた李徴は、地方の下級官吏の職に就く。
だが、自尊心の高さゆえに屈辱的な思いをしたすえ、河南地方へ出張した際に発狂して、そのまま山へ消えて行方知れずとなる。
翌年に、李徴の旧友で監察御史となっていた袁傪(えんさん)は、旅の途上で人食い虎に襲われかける。虎は袁傪を見ると、はっとして茂みに隠れ、人の声で「あぶないところだった」と何度も呟く。
その声が、友の李徴のものと気づいた袁傪が、茂みの方に声をかけると、虎はすすり泣くばかりだった。だが、やがて低い声で、自分は李徴だと答える。
そして、人食い虎の姿の李徴は、茂みに身を隠したまま、そうなってしまった経緯を語り始めて、今では虎としての意識の方が、次第に長くなっているという。
李徴は袁傪に、自分の詩を記録してくれるように依頼して、袁傪は求めに応じ、一行の者らに書きとらせる。
自分が虎になったのは、自身の臆病な自尊心、尊大な羞恥心、またそれゆえに、切磋琢磨をしなかった怠惰のせいである、と李徴は慟哭して、袁傪も涙を流す。
夜が白み始めると、李徴は袁傪に別れを告げる。袁傪一行が離れた丘から振り返ると、草むらから一匹の虎が現れ、月に咆哮した後に姿を消す。
「山月記」は中島敦の短編小説で、中国の唐代の伝奇『人虎伝(じんこでん)』を素材に、「詩をつくること」にとらわれてしまった人間、李徴の劇的な運命を、虎(とら)と化しながら、なお人間の心をもつという、臨界状況(限界をこえる)のもとに描いている。
中島敦は人間の生き方について語っている。
「人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりにも短い」