人間の生き方 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

 チャールズ・チャップリン(1889―1977)は、イギリス国籍の映画監督、俳優である。

 寄席(よせ)芸人歌手の両親のもとに、ロンドンに生まれた。

 

 母親は、4歳年上の義兄シドニーを抱いての、三度目の結婚であった。チャップリンが5歳のときに、父親が死亡して、夫の死のショックで、母親は声を失って、舞台を去った。義兄のシドニーは、船のボーイとなった。

 

 母親と2人暮らしのチャップリンは、路上で踊り、投げ銭をもらうが、母親は貧苦のあまりに、精神に異常をきたした。

 

 やがて義兄は家に戻り、兄弟でドサ回り芝居に雇われ、犬猫の演技を舞台で演じた。17歳でパントマイム一座の、フレッド・カーノ劇団に参加した。

 1910年と1912年の2回の渡米巡演で、キーストン映画社のマックセネット監督に認められて映画界に入った。

 

 1914年、第一作『成功争ひ』のあとの、『ベニス海岸の自動車競争』の撮影のときに、「ちょびひげ、どた靴、だぶだぶズボン山高帽ステッキ」のスタイルを考案した。

 

 この年に、キーストンで35本の作品に出演したが、その12本目から、脚本と監督も兼ねた。ついで翌1915年には、エッサネイ社で17本、1916~1917年ミューチュアル社で12本の作品を発表した。

 

 喜劇ペーソスと社会風刺を加えるようになって、『番頭』『勇敢』『移民』はその代表作である。

 1918年にファースト・ナショナル社に移り、『犬の生活』『担(にな)え銃(つつ)』『サニーサイド』『一日の行楽』『キッド』『のらくら』『給料日』『偽(にせ)牧師』を発表して、喜劇と悲劇を同居させて、チャップリン映画の香りを高めた。

 

 1919年にD・W・グリフィス監督、メリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクスとの4人で、ユナイテッド・アーティスツ社を創設した。

 

 その第一作である『巴里(パリ)の女性』(1923)は、長らく共演者であったエドナ・パービアンスのために、自分は監督のみの、悲恋運命ドラマを製作して、映画史上の名作と絶賛を受けた。

 

 ついで『黄金狂時代』(1925)、『サーカス』(1928)、『街の灯(ひ)』(1931)、『モダン・タイムス』(1936)と、トーキー嫌いの彼はサイレントに固執して、サウンド版の『モダン・タイムス』に初めて「声」を入れたが、世界に通ぜぬ即興「ことば」で歌った。

 

 貧しい庶民の愛を描き続けたチャップリンは、しだいに高度資本主義社会の人間疎外を告発して、現代文明への批判を強めていった。

 

 ヒトラーが勢力を伸ばしつつあった1940年に、ファシズムを弾劾する『チャップリンの独裁者』を発表して、独裁者とユダヤ人理髪師の二役の、完全トーキーに踏み込んだ。

 

 帝国主義戦争を批判した『殺人狂時代』(1947)を製作するに至って、アメリカ保守派がチャップリンを共産主義者とみなし、『ライムライト』(1952)のロンドン封切りのために、イギリスへ行ったチャップリンは、アメリカ政府に帰国を拒否された。

 

 理由は、『独裁者』『殺人狂時代』の作品の内容と、いまだにイギリス国籍のことであった。それにまた、未成年者を含む結婚歴もその理由となった。

 

 チャップリンの結婚歴は、最初が17歳のミルドレッド・ハリスで、次が16歳のリタ・グレイ、そして『モダン・タイムス』で共演したポーレット・ゴダードを経て、54歳で18歳のオナ・オニールと、四度目の結婚をして、3男5女をもうけた。

 

 ロンドンで熱狂的な歓迎を受けたチャップリンは、のちの1975年には、女王からナイトの称号を受けた。

 その後はイギリスで製作を続けて、『ニューヨークの王様』(1957)と唯一のカラー映画で監督のみで主演しない『伯爵夫人』(1966)の2作がある。だが、もはや往年の生彩はなかった。

 

 チャップリンには第1回のアカデミー賞(1927~1928)で『サーカス』に対して特別賞が贈られているが、そのとき、授賞式に出席せず、以来オスカーとは縁がなかった。

 

 しかし、彼がアメリカを去って20年後の1972年に、アメリカ映画アカデミーは、チャップリンの多年の功労に対して、改めてアカデミー特別賞を贈るため、彼をハリウッドに招いた。

 

 これに応じた83歳のチャップリンは、式場に姿をみせ、出席者全員の熱狂的な拍手にこたえた。

 

 そのほかに、フランスのレジオン・ドヌール勲章をはじめに、世界各国からの多くの栄誉を受けた。

 15の部屋をもつスイスの、ジュネーブ湖畔のベベーの邸宅で、妻や多くの子供と孫に取り囲まれて余生を送った。

 

 その間に、旧作の自作サイレント映画に、自ら伴奏音楽をつける仕事に励み、1977年12月25日に88歳の生涯を閉じた。

 

 チャップリンは、イギリスの映画監督、俳優で、寄席芸人の子としてロンドンに生まれた。ハリウッドを中心に活躍して、脚本、監督、主演を兼ね、ちょび髭、山高帽で、ユーモアとペーソスをふりまいた。作風は社会諷刺を加え、現代文明を批判した。

 

 チャップリンは、人間の生き方について語っている。

「人生はクローズアップで見れば悲劇だがロングショットで見れば喜劇だ」