最近、以前から気になってた人物を焦点に数冊の本を読み進めています。
幕末から明治にかけて、通算約25年間日本に駐在し英国外交官として活躍したアーネスト·サトウ。
司馬遼太郎さんの〈竜馬がゆく〉の中でも度々登場しています。
遠い崖 1 旅立ち ―アーネスト·サトウ日記抄―
読後の感想… めちゃくちゃ面白かったです。
1843年生まれなので、私の曾祖父(万延元年・1860年生)より少し上の年代の人です。
さて、サトウ(1843~1929)が日本に英国外務省の通訳生として初来日したのは1864年、19歳の頃。
当時、中国語を先に学べば日本語を覚える役に立つという上役の指示で、上海や北京に数ヵ月まず赴任を命じられますが、ラテン語を学んでもイタリア語やドイツ語を覚える役には立たないのと同じで、無駄な時間と当時思ったそうです。
そして、来日後一週間も経たずに、有名な生麦事件が起きます。
そして薩英戦争へ。
在日英国公使館で外交業務の傍ら、正確な日本語を学び、各地に出掛け、日本文化に直に触れ、正しい日本の姿を欧米諸国に紹介しました。
書き出すと項目が多すぎてとても書ききれませんが、筆者の萩原延寿氏が書かれた様に、人物像はとにかく〈人生の健脚家〉と表現するのがぴったり。
当時辞書もないのに、わずかな期間で幕府の分書も翻訳し通訳も出来、話し言葉と文章が違う時代なのに使い分けて、日本文化への造詣も深かった。
この本は幕末~大政奉還~明治維新へと14巻まで続いていきます。
本当は筆者はもっとずっと先まで追い掛けたかったのではと感じました。
ただ色々と現代とは時代が違うので、解釈が難しいと思う点がいくつもありました。
その一つ、例えば同僚だったB·H·チェンバレンが日本を離れる時に、清国の公使で赴任していたサトウ宛に書いた
「植民地生活の錆をこすり落とし、手遅れにならない内に物の見方を調整したいのです。」と言う言葉。
そのまま読み取ると、この1900年頃、当時の英国外交官はアジア地域の赴任をこの様に認識してた?のかも知れません。
日本と各国との不平等条約が改正されたのは1911年。
当時の時代背景を更に読み解いて行きます…。
続く…
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