「武相荘」と書いて「ぶあいそう」と読みます。「無愛想」とかけた洒落でもありますが、武蔵野(東京)と相模(神奈川)の境界あたりにあるというのが由来です;現住所は東京都町田市鶴川。小田急線鶴川駅下車、徒歩15分ほどのところにあります。一昨日、尋ねてきました。

ここは、旧白州(しらす)邸で、1943年から白洲正子さんが亡くなる年(1998年)までの間、白洲家の住居として使われていました。白洲正子さんは、樺山伯爵家に生まれ、幼少より能に親しみ、米国留学後、白洲次郎(後述)と結婚。随筆家であり、小林秀雄や青山二郎らと親交を結び、文学・骨董の世界では「超」有名な方です。「韋駄天お正」と呼ばれるほどの行動派だったそうです。

この、白洲正子さんのご主人が何故かこの2年ほどブームになっている人物:白洲次郎さんです。1985年に83歳でお亡くなりになっていますが、死後20年を過ぎて注目を集めている人物です。ちょっと前にNHKの「その時歴史は動いた」でも特集されていたと思います。実は最近自分の中でもブームで、関連書・著作などを集め始めています。

白洲次郎さんの人生でのハイライトは「日本国憲法」だと思います。他の連合国が動き出す前になんとか日本国政府からの「憲法」を出させようと(マッカーサー)草案を押し付けようとしたGHQ:米国に最後まで(より良い憲法をと)抵抗した日本人です。結局、大部分を飲むことになった米国案を日本語に訳したのが白洲次郎でした。

その中でも第9条。彼はこう言ってます:「新憲法のプリンシプルは立派なものである…戦争放棄の条項などその圧巻である。押し付けられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと素直に受け入れるべきではなかろうか。」

彼は実は戦後日本において非常に重要なポジションにいました。1929年の大恐慌のため、留学していたイギリス・ケンブリッジ大学から帰国し、戦後首相となる吉田茂と親交を持つことになります。第2次世界大戦前夜、吉田とともに米英との戦争を回避すべく策動しますが、その甲斐なく日本は太平洋戦争に突入。次郎は敗戦を見抜き、疎開を兼ねて鶴川(武相荘)に移住し、農業に従事しました。

戦後、吉田茂首相に請われてGHQとの折衝にあたりますが、GHQは「従順ならざる唯一の日本人」と彼を呼びました。それは、卑しい策略などでなく、自分の正しいと思ったとおりに発言・行動する姿がそう映ったのです。神戸一中時代からの友人は彼を「野人」と評しているそうです。

先にも書いたように、日本国憲法の成立に深くかかわり、サンフランシスコ講和条約締結にも通訳として吉田茂首相に同伴しています。調印式のとき、外務省と米国側が用意した英文の演説文を認めず、日本語で巻紙に毛筆で演説文を書かせ吉田首相に読ませたという逸話もあります。政界入りを求める声も強かったが、生涯在野を貫き、日本の復興につくしました。

日本の経済復興への貢献は、通産省設立、電力会社分割民営化および東北電力会長、という形でなされました。晩年はポルシェ911を操り、軽井沢ゴルフ倶楽部常任理事および理事長として、やんちゃなジェントルマンとして過ごしたということです。ちなみに、日本で初めてジーンズをはいた男としても有名です。

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写真上:「武相荘」長屋門、写真中:「武相荘」母屋への石畳、写真下:「武相荘」母屋(茅葺屋根は今年葺きなおしたもの)