こうしてスタートした聡太らの学生生活だが、いうまでもなく東京大学での授業はハイレベルで、試験の成績で3年以降の進学先が変わるので、皆必死に勉強していた。一方でアルバイトや研究もやっていて、聡太は雑誌「数学への招待」の「今月の問題」のコーナーを担当したり(このコーナーの問題は非常に難しいことで知られている。)、国際数学オリンピック財団と国際情報オリンピック財団の幹部と、数学オリンピックや情報オリンピックの実際のコンテストの問題や財団の運営についてやり取りしたり、国内外の研究者と数学の研究をしたり、日本の超VIPが主催する財団の奨学生として奨学生向けに講演をしたり、専用の施設で数学の研究をしたり、他の奨学生と交流して、日々を過ごしていた。数学の研究の分野は大学進学後、さらに広がり以前から研究していた整数論に加え、実解析・調和解析・微分方程式・組合せ論・表現論など多岐にわたるようになっていった。それはまさに聡太のおもむくままであったが、数学の研究をやるのが、一番の楽しい時間だった。

 

一方拓海ら高校時代のクラスメートや蓮ら国際数学オリンピック仲間・さらに海斗ら大学のクラスメートは大手進学塾の講師をしたり、家庭教師をしたり、採点のアルバイトをしたりして過ごしていたのだ。

 

 

その間ゴールデンウィーク中に開催された文化祭では聡太がクラス長兼シケ長としてクラスをまとめ、クラスで出し物をだしたり、クラスの絆も深めていったのだった。