公演前から作品解説のようなことをするのは初めてだ。
それだけ、来年5月の『菊菊&刀』には、創作に対する明確な意図をもっている。
もはや「面白いアイディア」や「卓抜したストーリー」が公演の条件には成り得ない。
自分のなかでそう思えてきたのが、ちょうど前作『わたしの、領分。』の頃からだった。
堅苦しいことを抜きにしてエンターテイメントを創り上げることができたらどんなに楽だろうか。
そう考えることが逃避にすぎないことは百も承知で、ならばやはり向き合うしかないと半ば脅迫観念的に、次なるテーマに行き着いた。
『菊菊&刀』は、留置所を舞台にする。
あまり世間一般で馴染みのない場所だ。
けれども実在する。大切なのはそこだ。
母と娘。
一番近い最小単位の家族を法の下に断絶する。
一時的な観点からすると、死別に匹敵する隔たりかもしれない。
物語のあらすじは以下のようなもの。
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「わたしを留置所に入れたのは、お母さんです」
母の不倫を暴露し、母に刑事告訴された娘・萌木子(ももこ)。
日常を強制的に剥奪された彼女は、一癖も二癖もある雑居房の人間たちとともに、閉じた鉄格子のなかで回想する。
どこで道を間違えたのだろう。
父が失踪して何年だっけ、母と二人でうまくやってきたつもりだった。
いなくなった父親をじっと待ち続けていた娘。
いつの間にか、男を家庭の外に求めていた母。
「わたしは、お母さんが、分からない」
暗い檻のなかから手を差し伸べても、肉親の頬の温かさに届くことはない。
一番近しい人の心を理解することさえ、できないものであろうか。
パトカーのサイレンが部屋の外から聞こえる。
運動場の片隅には、菊が2輪だけ咲いていた。
母と娘。本音と建前。女と親。
家父長制の崩壊した[不在の父]日本に沈みゆく、男を求めた小さな母娘の物語。
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さっそく主題から入ると、
「もう日本にはお父さんがいない」
僕はそう考えている。やや危機的な思いで。
18歳まで一般的な家庭で育ち、高校卒業の直前で父親に先立たれた僕は、父の愛を十分に受け取り、大人になるとともに父を失った。
だからこそと言うべきか。
常に家族のあり方について考えてきた。
これまでも家族を題材にとることが多かった。
息子を未成年に殺された一家が、現実逃避で図書館の本棚裏に隠れ住む『フーダニットしてくれる』。
男性の存在を否定し、血縁以外の女性集団によって一つの大家族を形成する『閻魔堂コロシアム』『新釈・月喰マスカレイド』。
家族間の意思疎通が壊滅したなかで食卓を囲みつづける偽りの団欒『赤鬼ーレッドパージ立山ー』。
このモチーフは形を変えて『Fire pRay ー秋津悠理のためのリサイタルー』にも引き継いだ。
転換点となった前作『わたしの、領分。』に関しては後述したい。
「自殺するまで肉親の考えてることが分からなかった」
この言葉に集約されるように、或いは「ひきこもり」「レンタル家族」「親殺し」「ネグレクト」などの使い古されたワードを引くまでもなく、近代日本が提示してきた家族像はとうに崩壊した。
核家族へのシフトは、最期の延命だったようにも思える。
いくら待てども、お父さんは戻ってこない。
ここで言う「お父さん」とは、家父長制における「父」という役割を指す。
子どもがのぞむお父さんも、妻がのぞむお父さんも、同時にその役割を担う(べき)一人の男性のことだ。
拙作『わたしの、領分。』では、①かつていた母、②いま生きている女性主人公、③やがて産まれてくる娘の、親子三代の物語を描いた。
その過去現在未来の一本の線上に「お父さん」はいない。
主人公を支えようとする夫は、かつて日本に数多いた大黒柱としてのそれではない。妻と手をとり、並んで歩くパートナーだ。
「お父さん」がいなくなったこと自体が問題ではない。
お父さんでもない人が「お父さん」を演じなくてはいけない、或いは「お父さん」の「ふり」を強制される状況に注目したいのだ。
『菊菊&刀』には、やはり父なるものは登場しない。母と娘の間で言及される、不在の象徴として位置づける。
消えてしまった「お父さん」を、母と娘という最小単位の家族が、いつまでも待ちつづける。
「家族とは最後に自分を守る家である」
この言説すらも、いまは揺らいでいる。
人は誰かに、どこかに、身を寄せなくては生きていけない。
一人ぼっちで産まれたくせに、一人では、生きていけない。
わたしたちは。
家族に何を求めているのだろうか。
わたしたちは。
誰と一緒に生きていくのだろうか。
「お父さん」の帰りを待ったところで、ゴドーよろしく、彼はついぞ姿を現さない。
「不在の父」とは何か。
それは現代日本そのものである。
『[完全版]菊菊&刀』
この国で家族を営むための物語。
今回はそのことを強く描きたい。