創立記念日 | やまとうた響く

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日々の出来事や想いを綴っています。エッセイ風に書けたら素敵なんだけれど。

今日は職場である知的障害施設が創立記念日だ。創立55年になる。私がまだほんの子供の頃に当時父親位の年齢の創立者が荒れ地を切り開いて今の施設の基礎のような小さい施設を設立した。

今日は土曜日ということで昨日利用者と職員全員に紅白饅頭が配られた。





以前は利用者だけに配られていたけれど、日夜利用者と共に過ごす職員にも、と誰かが提案したのか数年前から職員にも配られるようになった。せめて年に一度くらいはお饅頭を頂きながら一番最初の頃の創立者の想いを感じたい。

創立者は地元の中学校の教師で、当時知的障害のある子供達も特殊学級というクラスで中学校に通っていた。私が子供の頃にもそんなクラスがあり数人が在籍していた。

その頃卒業していく知的障害の子供達の親御さん達の、中学校を卒業したら行くところがどこにもない。いったいこの子はこれからどうすればいいのか、と言う苦悩の声が多数あり、創立者は意を決して中学校を退職し、当時20人くらいの親御さん達と力を合わせて山のような場所を切り開き小さな施設を作り開設した。

地域の確執もあったりと、苦労は山ほどだったようだ。それでも何人かの子供達を受け入れる施設が完成し動きだした。

元々は中学校を卒業した子供達の施設だったので、名前も〇〇学園、と言い今もそのままの名前が使われている。

その頃からの利用者も今もいるので、職員のことを先生と呼ぶ人もいまだ多い。先生じゃないよ、〇〇さんと呼んで、と言ってもなかなか難しいし、先生、なら職員の名前を全員おぼえなくても簡単なので結局は先生と呼ばれることもまだある。これも昔のなごりのひとつだ。

けれどそんな子供達も大人になるし、次には親が亡くなった後この子達はいったいどうなるのか、と言う親御さんの想いがでてくる。そこで、生涯親御さんが安心できる家庭のようなところにしよう、と、これが今の施設の基本で、それから、仕事もできる限りできるように、以前は牛を飼っていたり、農業やりんご園を作ったりと長い歴史のなかでさまざまなことをやってきた。うちの次女や長男は遠足で、施設のりんご園に行ったこともあった。


牛も飼っていたので、地域のちょっとした子供達の遠足の場になっていて、創立者の孫になる子とうちの長男が幼稚園で友達だったので、その子のお母さんが、我が子が自分の家に遠足で来るなんてびっくりよ。と言っていたのを思い出す。ちなみにこのお母さんに勧められて私はこの施設で働くようになった。Aさん暇でしょ。うちで働いてよ、今探してるとこだから。なんて感じで😁別に暇ではなかったけれど、誘ってもらったお陰で今があり人生も変わったんだと思う。今は心から感謝している。

自分の家、と言うのは、創立者が自分の家族も利用者と家族のように過ごして欲しい、ということで、当時敷地内に創立者一家が暮らしていたのだった。(今は法人になっているし、息子さんの代になるとやはり嫌だったようで別の所に住まわれている。)

つくづく立派な人だったんだな、と思う。私が施設で働くようになった時にはすでに亡くなっていたからお会いすることもなく残念で仕方ない。今にしたらずいぶん早く亡くなられているけれど、苦労に苦労を重ねてきたからだろうか、と思ってみたりする。


今ではすっかり大きく老人ホームもでき、法人となって、国からのいろいろな決まりごともあり、昔の個性はかなり失われているのかもしれない。

創立者が生きてらしたら、あれやこれやと歯がゆい思いもあるかもしれないな、と思う。時代と共に利用者も過ごしやすくなった反面、利用者の喜びよりも安全第一、となっているのでたくさんの楽しいことも失われたな、と思う。

私は知らないけれど、昔は海水浴に行ったり、キャンプに行ったり、家族共々一泊旅行にも行っていたり、ほんとに不便ななかでの楽しい思い出が山ほどあったようだ。

今は到底危険だから、と出来ないことだろうし、職員がそこまでは無理だと思う。昔の職員は無茶もあったようだけれど、体張ってたな、と感心する。ちなみに今は利用者も高齢化し、りんご園や牛の世話も難しくなりやっていない。

それでも今は今の時代のなかでよりよくできることを頑張るばかりだろう。時代は変わったなぁ、でもずいぶん良くもなったな、と創立者が思ってくれればいいのだけれど。

それでも私もあと2年か3年もしたら退職するだろうけれど、もうひと息、居る間は頑張ろうと思う。若者や、そうでない者、いろいろな人が居る方がきっといいに違いない😁



今年も施設にツバメがやって来て巣を作っている。時代と共にあれやこれやと変化しても、ツバメは毎年変わらずにやってくる。これからも毎年おいで〜。ヒナの姿を見るのが楽しみだ。