BEN、MEMOの偉人散歩 日本人て、誇り高く素晴らしい(柴五郎) | 偉人散歩

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日本人って素晴らしい

柴五郎

「柴五郎」の名を知る日本人は少ないと思います。

もしかしたら、イギリス人のほうが知っていると思えてなりません。

120年前の日英同盟の立役者と知っているから!

 

悲痛な幼少期

幕末、会津 鶴ヶ城に砲弾の嵐

五郎は10歳

柴家は会津藩の名家

五郎の父や兄は戦場へ、

祖母、母、姉たちは「女が戦場にいては足手まとい」

と全員自決

落城後、会津藩士たちは青森へ移住させられた

五郎と共に父や兄たちは極貧の生活

厳格な父は、五郎に

腹がへっても、-20の極寒の厳しい生活であっても

辛抱し

会津武士魂を叩きこむ教育を施した。

 

1900年 義和団の悲惨な暴挙

120年前の中国は、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、

オランダ、などの西洋諸国が中国本土を割譲し支配していた

 

混沌とした中国で、中国人による「義和団」が結成

「神ががった者が呪文を念ずれば刀はおろか銃弾も跳ね返す」

と精神論をぶちまけ

「扶清滅洋」(清を助け西洋を滅ぼす)のスローガンを掲げ

青龍刀を振り回し外国人居留区や教会を襲い

殺人、レイプ、強奪をしたい放題

日に日に義和団が膨れ上がり20万人以上に及んだ。

 

西太后

西太后はこの状況を見て義和団を後押し

諸外国に宣戦布告

清がバックについた事で義和団の暴挙は拍車がかかる。

 

義和団の暴挙を止めた小柄な日本人

諸外国の公使たちは命を守る為に

北京城(紫禁城)に籠城

籠城兵4000人(殆どは民間人、軍人は500名)

20万人以上の義和団兵が取り囲む

絶体絶命の危機

諸外国の公使たちはパニック

言葉の壁もあり意思疎通もできない。

その中で、冷静沈着、理をもって策を考える

柴五郎の姿があった。

砲弾が撃ち込まれる中

籠城軍が持っている弾薬は少ない

打ち合いはできない

わざと、義和団兵を城内に引き寄せ

青龍刀を振り回す義和団兵に対して

日本の武士集団が応戦

義和団兵がバッタバッタと倒される

残りの義和団兵はおじけついて逃走

義和団兵の士気は低く、直ぐ逃げる事を

見越しての戦術を繰り返す。

 

絶体絶命の状況下に於いても

感情的にならず冷静沈着

「理」をもって戦術を講ずる柴五郎に

各国公使たちは崇拝の念を抱く

無口な柴五郎が口を開けば

命が助かる術を言うと

パニック心を沈め、静かに耳を傾ける。

各国の公使の命は柴五郎の肩に乗っている

と言っても過言ではない。

 

イギリス公使館が襲われる

イギリス公使館には、

各国の婦女子、負傷者が集められていて

無防備状態

そこに、義和団兵が青龍刀を振りかざし乱入

一報を聞いた柴五郎は安藤大尉ら8人に

義和団兵を駆逐するように命令した

安藤大尉8人はあっという間に義和団兵を切り倒した

残りの義和団兵は「あいや~」という掛け声とともに逃走

婦女子、負傷者は目の前に起きている

日本兵の強さ、勇敢さに命が救われたと感謝感激

イギリス公使夫人は「私たちの命があるのも日本兵のお陰」と

 

籠城戦が2か月に及んだ

弾薬も底を尽き、さすがの柴五郎も疲労困憊

その時、救世主が現れる

救援軍1万6000人(殆どは日本軍)

義和団軍を蹴散らし沈静化させた。

マクドナルド公使

籠城戦後、列強会議でイギリス公使、マクドナルドは

「北京籠城の功績は半ば、特に勇敢な日本将校に帰するべき」と発言

日本軍の、勇敢さ不屈の意志、礼儀正しさを

イギリス公使は感銘を受け

その後の、日英同盟に繋がっていく。

 

日英同盟が日露戦争の勝利を導いた。

日露戦争が日本の勝利に終わり

ロシア帝国の支配を回避した背景には

日英同盟

世界最強のイギリスが日本のバックにあった事が

大きなポイントです。

当時、世界に冠たるイギリスが極東の近代化したばっかりの

黄色人国家、日本と対等同盟

世界中がWOYと思った。

日英同盟の裏には柴五郎たちの

誇り高い日本人の姿があった事は間違いない。

イギリス公使館襲撃で、命が助かった

公使夫人が「日英同盟を結びなさい」と

旦那である公使の尻を叩いたのかも

知れません。