たんぽぽの夢・7(第二部) | 孤独な音楽家の夢想

たんぽぽの夢・7(第二部)

(承前)

 

●第二部

 舞台は、第一部のまま。舞台前方には、第一部でメンバーによって運ばれ、捧げられた「花鉢」が並んでいる。舞台後方には、「花畑」を象徴する飾りがある。

 合唱団入場。指揮者、ピアニスト入場。

 

◆ナレーション4

 指揮者はマイクで星野富弘さんの訃報を伝える

 ——皆さん、ご存知の方も多くおられると思いますが、星野富弘さんが、4月28日にご逝去されました。ここに謹んでご冥福を祈りたいと思います。私たちは、《花に寄せて》を演奏するために、昨年の10月に、みんなで「富弘美術館」へ、バス遠足に行ってきたばかりでした。それが、このような追悼演奏になるとは、考えもしませんでした。しかし、星野さんが、私たちに残してくださった多くの作品は、これからも、きっと私たちを励まし、勇気付けてくれることでしょう・・・。今日は、これらの作品を作った星野さんの「絶望」や「希望」に思いを馳せ、感謝を込めて、《花に寄せて》を演奏したいと思います。はじめに、星野さんの著書『愛、深き淵より』の中から、『マタイによる福音書』11章28節から30節の聖句、そして星野さんの言葉を、バッハのコラールに乗せて朗読し、それを、私たちの弔いの祈りとしたいと思います。

 

J.S.バッハ:教会カンタータ《深き淵の底より、われ汝に呼ばわる》BWV38より

♪第6曲〈コラール〉(日本語訳:初谷敬史)

 この〈コラール〉(賛美歌)は、カトリック教皇から破門され、ヴァルトブルク城にかくまわれた苦難の時期のマルチン・ルターが、『詩篇』の中から130番を選び、それを民衆のためにはじめてドイツ語に訳し、みんなで歌うことができるように短旋律をつけたものである。そのルターの旋律に、バッハが和声をつけたものがこれである。このバッハの〈コラール〉は、現在、日本のプロテスタント教会において、賛美歌258番〈貴きみかみよ〉として親しまれているが、日本語訳詞が、ルターの旋律のイメージから離れてしまっているように思えるので、僭越ながら、僕が改めて訳し直すことにした——「深い淵から主よ/あなたを呼びます/恵み深い耳を/傾けてください/罪深いわたしが/あなたのみ前で/耐えうるでしょうか」・・・この〈コラール〉で語られる『詩篇』130番こそ、身体の自由を失った星野さんの出発点である。

 この〈コラール〉を、合唱団が歌った後、ピアノでリピートする。

 

◆ナレーション5

 指揮者は、この〈コラール〉に乗せて『マタイによる福音書』11章28節から30節の聖句、そして、星野富弘さんの言葉を朗読する。・・・これが、星野さんが見出した唯一の希望となった。

 ——「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎがきます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」・・・この神の言葉にしたがってみたいと思った。クリスチャンといえる資格は何も持っていない私だけれど、「来い」というこの人の近くにいきたいと思った。

 

 そして、この〈コラール〉に続く音楽(attaccaで演奏する)として、《花に寄せて》の第1曲〈たんぽぽ〉を演奏する。ホ長調で重々しく響くバッハの〈コラール〉が、大きなドミナント(属和音)の役割を果たす。これが、トニック(主和音)であるイ長調の〈たんぽぽ〉に解決するような仕組みにした。

〈たんぽぽ〉前奏の冒頭にあるアルペジオに誘発されるソプラノの音型は、まるで「綿毛」が「神秘の風」に吹かれて、空に舞い上がる瞬間のようである。そして、「神秘の風」の上昇気流に乗って、高く、高く、そして、遠く、遠く、異次元のところへと「旅」をしていくように感じる。

 ・・・つまり、星野さんが壮絶な体験の中で見出された「絶望の叫び」——「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」(『詩篇』130章1-2節)が、イエス・キリストの「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(『マタイによる福音書』11章28節)の言葉に導かれて「旅」をしてほしい・・・と、願いを込めているのである。今、まさに、星野さんの魂が、「たんぽぽの夢」、つまり「綿毛」に乗って、イエス・キリストの元へと向かうことができるように・・・。

 ・・・僕はこの〈コラール〉を発見したとき、「これではないかな?」と思った。そして、「この時ばかりは頭が熱くなった。」「待っていた言葉はこれか?」「これでいいのか?」「僕は繰り返しくりかえし読んでみた。」(髙田三郎:随想集『くいなは飛ばずに』)・・・と、高田三郎が、高野喜久雄の詩〈海〉に出会った瞬間を、僕自身が再現したように思えるほど、感動的な体験だった。

 

新実徳英:合唱組曲《花に寄せて》 詩:星野富弘

♪1〈たんぽぽ〉

♪2〈ねこじゃらし〉

♪3〈しおん〉

♪4〈つばき・やぶかんぞう・あさがお〉

♪5〈てっせん・どくだみ〉

♪6〈みょうが〉

♪7〈ばら・きく・なずな〉——母に捧ぐ——

 

 ここに、《花に寄せて》の各曲を説明する必要はないと思うが、《花に寄せて》で使用された星野さんの詩画がつくられた年代を記しておくことにする。新実徳英さんは、星野さんの詩画集『風の旅』(立風書房)を読んで感銘を受け、この合唱組曲を作曲したそうだ。そして、「ねこじゃらし」「つばき」「みょうが」「ばら」「きく」「ぺんぺんぐさ」「しおん」「てっせん」などが収められた第二章のタイトル「花に寄せて」を、組曲のタイトルとした。

 

「たんぽぽ」(1980年)

「ねこじゃらし」(1981年)

「しおん」(1980年)

「つばき」(1979年)、「やぶかんぞう」(1980年)、「あさがお」(1980年)

「てっせん」(1981年)、「どくだみ」(1980年)

「みょうが」(1981年)

「ばら」(1978年)、「きく」(1977年)、「なずな」(1979年)

 

 昨年の10月に足利市民合唱団のバス遠足で「富弘美術館」を訪れた時、たまたま「きく」が展示されてあった。・・・僕はそこから、しばらく動くことができなかった。なぜなら、そこに、僕の生まれ年、1977年と記されてあるのを見て、妙に親近感を覚えたからだ。・・・この組曲は、僕が生まれ育った時期の作品ばかりが集められている。僕は、星野さんと同じ空気を共有しているのだ・・・そう思うと、とても嬉しくなった。僕はアルバムをめくるように、あの頃の空気を思い出す。庭の草木や、裏の桑畑・・・。父の声や、母の笑顔・・・。・・・懐かしさ。・・・遠い記憶。

 

●アンコール

♪財津和夫(作詞・作曲)、初谷敬史(編曲):〈切手のないおくりもの〉

 コンサートの最後に、アンコールを用意した。これを含めてコンサートは完結するので、アンコールではあるが、ここに説明を加えることにする。

 〈切手のないおくりもの〉は、今回の「弔い」のテーマにぴったりの歌だと思い、選曲の段階で、既に決めていた曲である。しかし、なかなかいいアレンジが見つからなかったので、僕がアレンジするべきなのだろう・・・と思っていた。

 ・・・コロナ期に受けた「予言」もあって、この演奏会は、僕にとって特別なものになる・・・と、どこか思っていたところがある。それならば、もし僕がアレンジすることができるのであれば、そうしたほうが一番いい、と考えていたのだ。とは言っても、なかなか上手くいかなかったので、しばらく放置していた。(僕の常套手段である。笑)・・・僕がアレンジできなければ、アンコールはやらない、とさえ思っていた。

 そして、コンサートも迫り、もう無理だ・・・と諦めかけていた時、星野富弘さんの訃報を受けた。・・・そこで、決定的なアイデアを思いついた。これで、このコンサートが完成された・・・と、僕は思った。

 そのアイデアとは、〈切手のないおくりもの〉の前奏に、《花に寄せて》の1曲目〈たんぽぽ〉の前奏を流用したらどうか、というものだった。・・・この歌を「おくりもの」として、「わたしの好きなあなた」へ届けるために、「たんぽぽの夢」、つまり「綿毛」を利用すればいい、ということを思いついたのだ。この歌を「綿毛」が抱える「種」のようにして、「神秘の風」の上昇気流に乗せて、高く、高く、そして、遠く、遠く、異次元のところへと「旅」することができるように・・・との願いを込めるのである。

 このアイデアを形にするために、僕は、調性を工夫した。《花に寄せて》の終曲〈ばら・きく・なずな〉——母に捧ぐ——は、変ト長調で終わる。そこで、〈切手のないおくりもの〉の前奏のメロディを、「嬰へ音」から開始することにした。「嬰へ音→ト音→ロ音→ハ音」(1曲目〈たんぽぽ〉の前奏4小節目からのメロディ)という風に。つまり、終曲〈ばら・きく・なずな〉——母に捧ぐ——の「変ト音」が、〈切手のないおくりもの〉の「嬰へ音」へと、バトンタッチされたわけだ。「変ト音」と「嬰へ音」は、「異名同音」と言い、同じ音である。従って、終曲〈ばら・きく・なずな〉の「母への想い」という大切なものをひとつ持って、〈切手のないおくりもの〉において、「綿毛」は「旅」をしていくのである。それが異次元の調性でありながら、同じ音を共有する「変ト音」から「嬰へ音」への受け渡しである。

 僕は〈切手のないおくりもの〉の前奏を、ホ短調から開始することにした。そして、それが歌になる時、平行調であるト長調へと変化する。短調から長調へ。つまりこれは、賛美歌238番〈疲れたる者よ〉と同様の構成(ト短調→ト長調)となり、今回のテーマにピタリと合う。しかも、終曲〈ばら・きく・なずな〉——母に捧ぐ——の変ト長調から、〈切手のないおくりもの〉のト長調へ、次元が上げられることとなる。つまり、「綿毛」は、「こちら」から異次元の「あちら」へと引き上げられたことになるだろう。

 このようにして、《花に寄せて》と〈切手のないおくりもの〉は、途切れることのない同じ流れに乗って進むことが可能となった。従って、第二部は、バッハ〈コラール〉から、アンコールまで、ひとつのストーリーとなった。『詩篇』の「深い淵の底」から、星野さんの魂は「たんぽぽの夢」、つまり「綿毛」に乗って、イエス・キリストの元へ旅をし、絶望を共にし、共に苦しんでくれた「わたしの好きなあなた」、つまり母の感謝へと、繋がっていく。母に、この「たんぽぽの夢」の神秘を伝えたい・・・。今、星野さんの「綿毛」と、お母さまの「綿毛」は、「あちら」へと確実に飛んで行っていることだろう。そして、「あちら」で再開できることを、僕は強く願っている。

 

 ・・・僕が考えたテーマ「母に捧ぐ、たんぽぽの夢。」が、ここに完成した。(・・・この完成は、当然の結末である。そのように「予言」されていたのであるから・・・。)

 

○「綿毛」たちは、そよ風に吹かれながら、旅立つその時を、今かいまかと待っている。遠く、遠く、飛んでいきたい、と。

 

by.初谷敬史