孤独な音楽家の夢想
■彩の国男声コーラスフェスティバル2018
【日時】10月6日(日)開演11:40
【会場】秩父ミューズパーク音楽堂
【出演】志木グリークラブ(指揮:初谷敬史):「Deep river」「The battle of Jericho」

■第16回いろはふれあい祭
【日時】10月13日(土)10:00~15:00
【会場】いろは遊学館(志木市)
【出演】志木第九の会(指揮・テノール:初谷敬史、ピアノ:矢内直子):ヘンデル《メサイア》より「Comfort ye my people」「Ev'ry valley shall be exalted」「And the glory of the Lord」「For unto us a child is born」

■無垢の予兆 ― 八村義夫生誕80年祭
【日時】10月28日(日)開演18:00
【会場】トッパンホール
【出演】ヴォクスマーナ、クール・ゼフィール、空、暁、成蹊大学混声合唱団
【曲目】
八村義夫(1938~85)/ アウトサイダー第1番「愛の園」op.8‐1(1971)
八村義夫(1938~85)/ アウトサイダー第2番 op.8‐2(1974)
伊左治直(b.1968)/ 天外脱走(新作・初演)詩:原口統三
Sylvano Bussotti(b.1931)/ Cinque Frammenti All’Italia 5つのイタリアの断章(1967-68)
Carlo Gesualdo(c.1566~1613)/ マドリガーレ集第6巻より
 Se la mia morte brami もしもお前が私の死を望むなら
 O dolce mio Tesoro 優しい私の宝である人よ
 Io pur respiro in così gran dolore こんなに大きな苦しみの中でも
 Moro, lasso, al mio duolo 私は死ぬ、悲しみや苦しみゆえに
 Ancor che per amarti お前を愛する故に私はやつれ果てる
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2018-09-28 00:05:33

オペラの指揮と演出・4

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(承前)

 

 さて、僕がフンパーディング《ヘンゼルとグレーテル》を演出するにあたり、「メルヘン・オペラ」であるこのオペラを、どのように捉えたらいいか・・・、考えてみたい。

 

 「メルヘン・オペラ」の代表作と言えば、モーツァルト《魔笛》だろうか・・・。芝居小屋の役者による民謡風の歌は、何とも心地よく、子どもたちはすぐに虜になる。また、登場人物たちもとてもチャーミングで、物語もとても分かりやすい。特に台詞で芝居が進行することは、何より分かりやすさという面で重要なことなのかもしれない。

 一方、フンパーディング《ヘンゼルとグレーテル》はどうだろうか・・・。タイトルは、誰でも一度は耳にしたことのある有名なグリム童話のひとつなので、取っ付きはいい。しかし、その音楽は、通作されており、台詞はない。いわゆる「オペラ」なのである。しかも、モティーフによって、さまざまな仕掛けが、全編に渡って網の目のように施されていることが分かる。台本を丹念に見てみると、含みのある言葉が散りばめられており、それを繋いで行くと、驚くべき世界が広がってくるように思える。

 このオペラは、本当に「子どものため」の作品なのだろうか・・・。

 

 この作品の楽譜をしげしげと眺めていると、1880年から1881年の間、リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)の最後の楽劇《パルジファル》(1882)の助手を務めていたというエンゲルベルト・フンパーディング(1854-1921)の、オペラの初挑戦への意気込みや執念、もしくはワーグナーの後継者という使命感、更に、彼自身が本当に楽しんで作っていたワクワク感さえ感じられる。・・・それは、徹頭徹尾、フンパーディングの知への欲求、好奇心によって生み出されたのだろうと思うのだ。「童話」という枠を、はるかに飛び越えて・・・。彼の頭の中に広がるメルヘンへの想像力は無限に広がって行き、それらをすべて音に再現することはあまりにも広大すぎて、けっして容易な作業ではなかっただろう。

 もちろん、はじめは、子ども用の、素朴なドイツ風歌曲にしかすぎなかった。1890年、フンパーディングの妹アーデルハイト・ヴェッテ(1858-1916)の提案で、夫ヘルマンの誕生日に、家庭用の音楽劇(リーダーシュピール)にしようと、妹が台本を書き、兄が作曲をした。「踊りの歌」、「子守唄」、「目覚ましの歌」、「森の歌」の4曲であった。

 この家庭での上演(1890年5月16日)が好評であり、同じ年、要望により、台詞と歌で構成される「ジングシュピール」に書き換えられた。台本は、妹のアーデルハイトに加え、夫ヘルマン、実父のダスタフ・フェルディナントの合作で、曲は16曲となった。

 それから、オペラ化しようと思い立ち、2年の月日をかけ1893年9月17日に完成する。同年12月23日、ヴァイマール宮廷劇場で、リヒャルト・シュトラウス(1864- 1949)の指揮により初演された。

 推測では、音楽劇(リーダーシュピール)とジングシュピールまでは、フンパーディングの頭の中では、「メルヘン」であり続けたはずであるが、オペラ化しようと決意した時から、タガが外れ、彼の物語から発想された無限の想像力と、知的好奇心に歯止めが利かず、ワーグナーに学んだ音楽技法や心理描写を駆使し、自らの思うままに作曲したのではないかと思う。そう、何にも縛られず、自由に・・・。

 

 従って、今回の公演の目的は、「3歳からの子どもオペラ」であることには変わらないが、子どもに媚を売りすぎず、台本や楽譜から自由に発想されたことをそのままに演奏・演出していきたいと考える。僕たち自身の好奇心がくすぶられ、興奮するものでなければ、その感動は聴衆には伝わらないと思うからだ。たとえ3歳が相手だったとしても・・・。知への欲求が、人類の文明を発展させてきた。そう考えれば、「渋谷・発」の本物の「ヘンゼルとグレーテル」をやる意義がある。多くの先人たちの伝説や教訓を踏まえ、グリム兄弟、またはベヒシュタインが、童話に込めた意味・・・、フンパーディングがそれをオペラという芸術で開花させた意味・・・、そして、僕たちが今、それを舞台にする意味・・・、そこをしっかりと見定めて、生命感溢れる新たな舞台をつくっていこうと思っている。

 

◆稽古場にて。右から、魔女と母親役の江原啓之さん、僕、エレクトーンの清水のりこさん、ヘンゼル役の小村知帆さん、グレーテル役の森川史さん。

 

by.初谷敬史

2018-09-27 23:59:42

オペラの指揮と演出・3

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(承前)

 

 ある時、牧師に「あなたは牧師になる人間だ」と、真面目に言われたことがある。僕はこの時、自分でもそう感じている・・・と、素直に思った。

 自分でも不思議なのだが、僕が合唱練習の際に、キリスト教の音楽について語っている時、きまって、僕のもとに「聖霊」が降りてきている・・・、と言う合唱団員がいる。たしかにそういう時、今まさに、その情景を見ているかのように、次から次へと僕の口を伝って言葉が紡ぎだされるのである。

 言葉・・・。聖書に語られてある通り、神は「言葉」なのであろう。それは、何よりも「先立つ」ものであり、「とこしえ」のものである。生まれてはひたすら朽ちて行く運命に支配された人間存在とは違う。神の言葉は、僕たち人間にとって重要な意味を持っている。そして、それは必ず実行されるのだ。大変おこがましいとは思うけれども、僕の不思議な体験を考えると、神の言葉が実行されるために、僕の口を伝って、神の言葉が語られているのかもしれない・・・、と思うのである。(「聖霊降臨」の「炎のような舌が分かれ分かれに現われ、ひとりひとりの上にとどまった」とは、きっとこういうことを示しているのだろう・・・。)

 ・・・僕は、キリスト教徒ではない。しかし、西洋音楽を生業とする以上、それを前提としないわけにはいかない。僕は、キリスト教音楽を譜読みする度に、手を合わせてから「聖書」を開く。そうすると、きまって、その時に必要なページが開かれるのだ。そして、ある種の感動がじわじわと涌き上がってくる。・・・「旧約聖書と新約聖書の驚くべき一致(神の言葉が実現されること)」――それが、僕の譜読みしている楽譜に、明確に現われているのだ。(・・・僕の場合、ほとんど直観的に、そして多くの場合、霊感を受けてひらめく。それは、聖霊の働きなのか、はたまた、作曲者自身の声が聞こえてくるのか・・・。)

 

 「言葉」と「音符」が、深い意味をもって共鳴し、「楽音」に乗って、この世界に響き渡る・・・。人びとのこころに向けて・・・。そして、人びとの行為にそのものに向けて・・・。

 真の作曲家は、神の言葉を解釈し、自らの音楽を通じてその意味を解き明かし、その音で西洋を更に発展させていこうとする明確な意志を持っているのである。(・・・僕はようやく、そのことに気がついた。探求することの面白さ・・・。)

 

 西洋の芸術作品というものは、このように、計り知れない奥行きを持っている。それを、パフォーマーは解釈し、再構築しなければならないのである。

 

 オペラ『狂おしき真夏の一日』の音楽稽古の際、ある歌手が、僕たち副指揮に出した要求――誰が、ドラマやディクションを教えてくれるのですか・・・。

 ・・・残念ながら、僕は沈黙するしか方法がなかった。言われている意味すら分からなかったのだ。それは、一体誰の仕事なのか・・・。台本のことなら作家に、曲のことなら作曲家に、キャラクターや演技のことなら演出家やドラマトゥルギーに、音楽的なことは指揮者やコレペティートル、そして副指揮者に・・・。

 その要求を受けて、それでも僕なりに作品を見返し、それぞれのキャラクターの設定を考え、どういう場面でどんなふうに歌うべきか、明確な答えを出そうとした。

 ・・・しかし、その歌手が言っていたのはそういうことではない。(そんなことは、楽譜を読めば、すぐに分かることだ。そのことが、恥ずかしながら、今になってようやく分かってきた。)それは、本指揮者の下振りである副指揮といえども、ひとりのアーティストとして、作品の背景を踏まえて、作品をきちんと解釈し、実際に演じるところの歌手と、そのことについて真っ向から議論を交わさなければならなかったのだ。少なくとも具体的なイメージをしっかりと持ち、そのことについて、自信をもって篤く語れるほどでなければ、歌手たちの前に立つ資格はないのである。

 いや、それこそが、オペラ全体を下から支える副指揮者の大切な役目なのだろう。副指揮者は、音楽の下稽古を終えて、演出家や本指揮者にすべてを渡す時、ただ形ばかりを整えたものを渡すのではなく、歌手との間で作品についてたくさんの議論を交わし終え、それぞれに納得することのできたものを携えさせて、実際の舞台へ挑むことができるようにしなければならないのである。そうしなければ、演出家と本当の意味で、彼らは舞台上で議論を交わすことができないだろう。

 ・・・音楽、言語、演劇。歌手たちの歌唱には、解釈と表現も含まれており、歌い方はそれぞれである。彼らが稽古で掴みたいこと――それは、楽譜から導きだされる解釈、そして表現の仕方なのだ。世界のマエストロ、バレンボイムは言う――「音楽家は、楽譜に対して謙虚であるべき。哲学者や生物学者、医学者が文献を研究するように・・・。その後で、演奏している時に初めて、自分が感じる通りに音を響かせる自由を得ることができる。音楽家とは、可能な限りの謙虚さと自信と、自身をさらけ出す意志を持った人物だろう」、と。

 

 ・・・これがオペラの作り方。

 このように考えると、副指揮者は、単にアシスタントなのではなく、それ相応の人物=アーティストでなければならない。豊富な経験、研究に裏付けされた説得力、最高のものを歌手から引き出す技術、さまざまなことが起こる現場における適応力・・・。副指揮を誰が務めているのかは、その公演の良し悪しを左右する重要な要素であろう。・・・そう言えば、三澤先生に以前、教わったことがある――「副指揮者や合唱指揮者は、本指揮者に渡す前に、自らのイメージで、しっかりと音楽をつくっておかなければダメだ」、と。それは、「解釈」と「再構築」に他ならない。

 「解釈」「再構築」とは、元あるものに、何かを脚色することではない。・・・ここが間違えやすいところであろうが、そうではなくて、作曲者が作品に込めた「本当の意味」や「意図」、「メッセージ」を探り、本来あるべき方向へ導くということである。

 

 テレビ放送で観た「バイロイト音楽祭2018」でのユーヴァル・シャロンの演出した歌劇《ローエングリン》や、「エクサン・プロバンス音楽祭2017」でのドミートリ・チェルニャコフの演出した歌劇《カルメン》の大胆な読み替えを行った新演出は、本当によくできていて感心させられた。驚くべきことに、音符や言葉は、何ひとつ変えていないのにも関わらず、別の物語の設定がぴたりとはまっている。しかも、そうすることで、オペラの本質が、より際立つように構成されているのである。

 もしかしたら、真の芸術作品というものは、「読み替え」が、いかようにも可能なのかもしれない。それは、人類共通の普遍的要素を、作品の核に据えているかどうか・・・ということだろう。・・・このことは、作者自身の人生観によるものだ。どんなことを人生に感じ、世界に対してどんな問題意識を持ち、どのように歴史を踏まえ、どのように今を生きているのか・・・。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

2018-09-27 23:58:04

オペラの指揮と演出・2

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(承前)

 

 改めてもう一度、あの経験を振り返れば、副指揮者として、「形を整える」ということ・・・に主眼を置いてしまったことが大きな反省点として浮かび上がる。

 もちろん、「形を整える」だけでも大変な作品ではあった。「初演」とは、誰にも完成した姿が分からないということだ。しかも、不可能であると誰もが思うものを、確実に可能にしていくのである。「楽譜」を「楽音」として「再現」する集中力と執念は、我ながら凄まじいものがあったと思う。しかし、そこには、決定的に欠落したものがあった。・・・それは、初演する者自身による作品の「新たな解釈」である。作品の意味を解き明かし、再構築すること・・・。

 

 このことは、「西洋芸術音楽」における作品演奏や舞台化において、最も重要なことかもしれない。

 楽譜を媒介とする「記された音楽」、「再現芸術」であるところの「僕たちの音楽」において、作者でないパフォーマー(台本作家や作曲者ではない演出家や指揮者、そして歌手や奏者、ダンサーなど)は、ただ、台本や楽譜に書かれてあるものを、そのまま再現するように演奏し、演じるのではない。それぞれのパフォーマーが、作品成立の経緯や物語の背景などを踏まえ、言葉や音符に隠された「本当の意味」を探り、それを「解釈」として内包しつつ、今まさに自身がそのことを考え出し、感じているかのように表現することが大切なのである。

 僕たちは、一流の作品には、明確な「意図」や「メッセージ」が込められている・・・と考えているのだ。一流の台本作家や作曲家は、「世界の成り立ち」を解き明かそうとしているはずである。それを言葉や音符に隠すのだ。

 パフォーマーが、その「本当の意味」を探り当てた時、腑に落ちるどころか、感動のあまり、ピョンピョン飛び跳ねてしまうだろう。世界の秘密を知ってしまったのだから・・・。ほとんど、「悟りを開く」ことに等しい。昔、ニュートンが、りんごの落ちたのを見て、目に見えぬ世界の法則を発見した時のように・・・。

 

 僕たちはそれを探るために、特徴的なモティーフやキャラクターといったものに、特定の意味を付け加えて「定型化」させ、また、思い切って個性を誇張させるように「デフォルメ」して、それらを新たに捉え直す作業をする。これは、単純化された「型」となる。

 例えば、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」第1楽章の冒頭「ジャジャジャジャーン」は、一体何を意味するのだろうか・・・。これは、単にリズムと音程であって、意味を持たない・・・と学者は言うかもしれない。しかし、この素材を聴いた者は、何かしら迫り来るもの、強く訴えかけてくるものを感じるだろう。それは、たたみかけ、重ねられ、強弱を変え、調性を変え、音色を変え、幾度も繰り返されるからである。僕たちには、あたかも、楽曲が物語を持っているように思えてくる。しかし、ベートーヴェンは、このモティーフについて、何も語ってはいないのだ。彼の想いはたくさんあったかもしれないが、それについて、数百ページに及ぶ論文を書いたわけではない。彼が残したものは、楽譜だけである。だから、僕たちはその楽譜から、彼の真意を読み解くわけである。何かそこに、込められているものがあるのではないか・・・、と。

 ・・・こうした「型」は、実は、その作品の中だけで完結しているのではないように思う。明確な根拠はないにしても、ほかの作品やさまざまな芸術、伝説、宗教、さまざまな学問、はたまた、歴史や社会現象といったものと深く関わり、それらにインスピレーションを受けて創作されているのは間違いないだろう。だからこそ、西洋の「芸術作品」が生まれるのである。「模倣」と「破壊」を繰り返してきた西洋の芸術作品の「普遍性」は、こういうところにあると思う。そうであるならば、複数の「型」が複雑に組み合わさり、絡み合うことは、そのひとつひとつに膨大な意味が含まれていることになり、それを前提とした新たな意味をつくり出すことになるだろう。

 

 以前、僕は、音楽をあまり好きになれなかった時期がある。それは、つまらない音楽――感覚的な音楽、気分や趣、情緒を現すような音楽――にしか、触れていなかったからかもしれない。いや、触れようとしなかったのか、もしくは、触れたとしても理解することができなかった。・・・僕は、音楽を、いや西洋を何も、理解していなかったのだ。

 西洋芸術音楽の奥行きは、計り知れないものだ。例えば、キリスト教音楽に触れてみると、よく分かる。西洋の作曲家は、相当の覚悟をもって、宗教作品を書いているはずである。なぜなら、それがステイタスになるからではない。あまたの信者の納得と感動、そして、神秘的体験を生まなければならないからである。それは、キリスト教を知らない作曲家が、キリスト教の作品を書くのとは訳が違う。パウロが「聖霊」に導かれて「書簡」を書いたように、先人たちが「聖霊」に導かれて作曲した膨大な数の傑作群があるのだ。後世の作曲家は、当然それを踏まえ、そしてそれを越えなければならない使命を持っている。先人たちの傑作を知らない、分からないでは話にならない。それが歴史であり、文化というものである。

 このことは、西洋の人たちが、その起源の多くを「エルサレム」「ローマ」「ギリシア」に置いていることと関係しているのだろう。何千年、はたまた何万年のはるかなる旅である。(日本人が、起源の半分を、朝鮮半島、中国大陸、そして天竺に見出すように・・・。)もちろん、そのすべてを知ることはできない。しかし、この深淵に目を向けた時、西洋の奥深さ、芸術音楽の奥深さ、そして面白さに、はじめて気付かされるのである。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

2018-09-27 23:55:36

オペラの指揮と演出・1

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 クリスマスに向けて、オペラ《ヘンゼルとグレーテル》の音楽稽古がスタートした。とても楽しい現場で、いつも活気に満ちている。

 稽古は予想通り、僕のリーダーシップで進んでいる。リーダーシップ・・・。チラシに載せられた「演出 / 音楽指導」とは、つまり、立ち稽古においては「演出家」であるが、音楽稽古においては「指揮」をするということであったようだ。

 

 ・・・バロックオペラやモーツァルトのオペラと違い、フンパーディングは、指揮なしでは演奏が難しい作品である。楽譜を読むと、それがよく分かる。テンポの変化ということだけではなく、フンパーディングのオーケストラパートは、歌の伴奏ということを遥かに越えて、ワーグナーのそれと同じように、オペラ全体に張り巡らされたさまざまなモティーフによって歌手を導き、物語を展開させ、そしてオペラの内包する深い意味を雄弁に語るという重要な役割を担っているのだ。それはとても複雑で、全体を統制する指揮者が、どうしても必要だと思われる。

 しかし、今回の上演では、指揮者を立てていない。三枝先生の提案で、指揮なしの室内オペラを目指しているのである。今回は、オーケストラをエレクトーン一台でこなすので、歌曲や重唱の伴奏というイメージで演奏すれば、やってできないことはないと思うが、そもそも、作曲の段階で、指揮なしで上演することを想定していないのだから、難しいことは当然のことであろう。

 

 稽古初日、稽古場に入ると、部屋の真ん中に、指揮者用の椅子と譜面台が設置されていた。僕はそれを見なかったことにして、部屋の隅の椅子に腰掛けようとした。しかし、エレクトーンの清水さんや、歌手の皆さんからの強い要望があり、僕は指揮者用の椅子に座るように促された。僕が少しためらっていると、三枝先生が、僕に目配せをした。僕は覚悟を決め、中央の椅子に腰を下ろした。・・・その椅子に座るからには、音楽のすべてを任されるということである。現に、総合監督である三枝先生は、稽古の様子をしばらく監督してから、ひと言も指導することなく、途中で退出された。

 ・・・稽古が始まれば、きっと、そういうことになる――そんなふうに、僕は予想を立てていた。だから、稽古初日に合わせて、こころの準備と実際の準備とをしていたのである。何事もスタートが肝心である。特にプロの現場は、出来ない、分からないでは、話にならない。中央の椅子に座るからには、そこにいる誰よりもプロフェッショナルでなければならない。初めて触れる作品・・・などということは、まったく理由にならない。隅々まで熟知している必要があり、かつ、歌手や奏者を、的確に「ある方向」へ導いていかなければならないのである。そこにはけっして、曖昧さや迷いがあってはならないのだ。

 ・・・そういった意味において、ありがたいことに、順調な滑り出しとなった。

 

 僕は稽古初日に合わせ、入念に準備を重ねてきた。それは、ちょうど一年前のあの記憶――オペラ『狂おしき真夏の一日』での大きな反省――を、当然、踏まえている・・・。

 反省・・・。

 僕は初めて、あのような巨大プロジェクトで、「副指揮者」という大役を務めた。正直、僕は副指揮者として、事前にどのような準備をしなければならないのか、皆目見当がつかなかった。それは、副指揮者が実際に、現場で何をしなければならないのかが分からなかったからである。

 

 ・・・実は、8月中旬から始まる稽古を前に、僕は相当困り果てており、三澤先生に相談をしたことがあった。三澤先生は、若い頃、二期会のオペラやミュージカルなど、様々な舞台作品で副指揮の経験をずいぶん積んできた方である。特に「バイロイト音楽祭」での経験は大きく、現在の新国立劇場の舞台は、先生が作ってきた・・・と言っても過言ではない。そして、当然、修羅場という修羅場を、たくさん潜り抜けてきたことは間違いない。

 ・・・しかし、残念ながら、僕の求めるような応えは返ってこなかった。僕の具体性のない、消極的な、苦しまぎれの質問も、良くなかったにちがいない。(もっとも、僕は本当に基本的なことすら分かっていなかったようである。)僕は質問をしながら、薄々、そうなることを予測していたほどだった。僕は、とにかく自力でやってみるしかない・・・と、この時決意した。

 

 ・・・こういうことは、きっと、教えることができないのだ。実際に、その場になってみなければ、そこで一体何をすべきなのか、誰にも分からないのだから・・・。

 例えば、新人の医者が、マニュアルを見ながら患者に対する訳にはいかないのと同じことだろう。・・・すがる想いで病院にやってきた患者と診察室で新人の医者が初めて接する時、医者はその顔色や目の輝き、歩き方などを観察する。そして、話を親身に聞いて、触診して、検査をして、さまざまな数値を見て、原因を探るのである。そして、あらゆる病気の可能性を考え、それをひとつずつ潰していき、あるひとつの答えを導きだす。その対処は、患者ひとりひとりで違うはずだ。今まで経験したこともないような難病かもしれない。もしかしたら、大学で教わらなかった処置が求められているかもしれない・・・。

 そう考えるならば、何事も失敗を経て、学習していくものだ。しかし、医療の現場では、けっして失敗は許されない。新人であることは言い訳にならない。非常に厳しいことであるが、命の責任を負っているのだから、仕方がない。だからこそ、どんな時も誠実さが必要であり、探究心を失ってはいけないのである。

 

 僕は、残念ながら勉強が足りなかった。予想を遥かに越えた、厳しい現場だった。けれど、僕は現場で僕なりのやり方を見つけ、成功を勝ち取るために精一杯、努力した。この失敗と反省は、今の僕にとても役立っている。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

2018-08-09 11:41:38

渋谷こどもオペラ・4

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(承前)

 

 

 

■3歳からの「渋谷こどもオペラ」

フンパーティンク:オペラ『ヘンゼルとグレーテル』(日本語版・1時間公演)

総合監督:三枝成彰

演出・音楽指導:初谷敬史

 

【出演者】

魔女&母:江原啓之(バリトン)

グレーテル:森川史(ソプラノ)

ヘンゼル:小村知帆(ソプラノ)

眠りの精&露の精:瀧口沙由里(ソプラノ)

合唱:「シダックス・アカデミー渋谷混声合唱団」「杉並区民オペラ ミュージカル・プール」

エレクトーン:清水のりこ

 

【日時】(全9回公演)

12月21日(金) ①開演11:30 ②開演15:30

12月22日(土) ③開演11:30 ④開演15:30

12月24日(月・祝) ⑤開演11:30 ⑥開演15:30

12月25日(火) ⑦開演11:30 ⑧開演15:30

12月26日(水) ⑨開演11:30

※12月22日は、「江原啓之サポーターズクラブ」および「スピリチュアルワールド会員」限定の貸切り公演。

 

【会場】

シダックスカルチャーホールA

東京都渋谷区神南1-12-10シダックス カルチャービレッジ8F(渋谷駅から徒歩6分)

 

【料金】★8月13日(月)一般発売開始

こども 1,000円(全席指定)※3歳~20歳まで

おとな 3,000円(全席指定)

※親御さんのひざの上で鑑賞されるお子さまは無料(3歳から入場可)

 

【お問い合せ】

株式会社メイ・コーポレーション 03-3584-1951

【チケット取り扱い】

チケットぴあ 0570-02-9999(Pコード125-380)

 

by.初谷敬史

2018-08-09 11:35:26

渋谷こどもオペラ・3

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(承前)

 

 あれから一年、三枝さんより、新たな役目をいただいた。

 

1)日本の若者文化の中心地「渋谷」から発信。

2)「子ども」のための「オペラ」。

3)オペラ『ヘンゼルとグレーテル』の「演出、及び音楽指導」(・・・つまり「全て」)。

 

 三枝さんは、(自称)自身最後となる渾身のオペラを終えて、オペラ・プロデューサーとして、自らの今後の活動を改めて考えてみたそうだ。そこで発案したのは、「小劇場でのオペラの可能性」。ここに、今後のオペラの「あり方」・・・について、新たな希望を抱いている。お金をかけず、身近で、且つ臨場感があり、裾野を広げるべく誰でも観劇できるオペラ。

 ・・・このことを実現するために、ありがたいことに、この僕に、ある種の希望を抱いてくれている。

 ――「彼なら、きっと子どもが楽しめる舞台を作ってくれる」、と。

 僕も、「大劇場」で「玄人」のための「現代演出」・・・などと言われると、相当の難しさを感じるが、「小劇場」で「子ども」のための「メルヘン」・・・となれば、少し気が楽である。これまで培ってきたさまざまなことが活かせるかもしれない。大切なことは、僕自身が子どものような気持ちになって、自分が一番楽しんで舞台を作ることであろう。

 

 「渋谷こどもオペラ」の対象は、何と、3歳からである。3歳児は、ひとりでホールに来ることができないので、当然、親や家族が一緒に連れてきてくれるだろう。公演時期は、ちょうど『ヘンゼルとグレーテル』の時期=クリスマスである。(世界的に、このオペラはクリスマスに上演される。)・・・「クリスマスのお昼にオペラを観て、家族みんなで感想を言い合いながら、クリスマスディナーをする。そんな素敵な時間が、毎年恒例の家族行事になりますように・・・」、との願いが込められている。小さな子どもは、お父さんやお母さんの膝の上で鑑賞。この場合は無料。席に着きたい子どもたちは1,000円。大人は3,000円となっている。

 若者文化の中心地=渋谷のど真ん中にある「シダックスホール」は、本格的なシアター型円形ホールで、127席というオペラを鑑賞するにはとても贅沢な環境である。席に座れば、舞台はすぐそこ。臨場感たっぷりに、音や光に包まれて、グリム童話「ヘンゼルとグレーテル」の夢のような世界へ誘われるのだ。深い森、夜の神秘、かわいい天使たち、お菓子の家、怖い魔女・・・思い描いただけでも、ウキウキしてしまう。

 今回は、子どもたちが最後まで見ることができるように、約1時間に短縮して上演する。このオペラの題材はメルヘンであるが、ワーグナーの「楽劇」のように劇が通しで作曲されているため、どのように場面を構成するのかは、演出の腕の見せどころである。

 

 さあ、『狂おしき真夏の一日』での貴重なオペラ作りの経験を踏まえて、僕は楽しい青写真を描きながら、ひとつずつ張り切って作り上げていこうと思う。

 今回の目玉は、何と言っても、スピリチュアル・カウンセラーとして有名な江原啓之さんを、魔女役としてお招きしたことである。そのまま演じられたら、相当、凄みのある魔女になるのではないかと、今から楽しみである。江原さんには、魔女役と母親役のひとり二役を演じていただく。これは、子どもを叱る母と、森に住む魔女が、実は同一人物なのではないか・・・、という解釈によるものである。

 ヘンゼル役は、三枝さんのお膝元で研鑽中の小村知帆さん。『狂おしき真夏の一日』でも家政婦のリサ役を演じ好評を博した。グレーテル役に、二期会オペラ研修生の森川史さん、眠りの精と露の精役に、二期会オペラ研修生の瀧口沙由理さんがひとり二役で出演。お三方とも、若手のホープである。

 エレクトーン演奏は、数々のオペラやミュージカルを、エレクトーン1台の伴奏で手がけている清水のりこさん。

 合唱には、「シダックス・アカデミー渋谷混声合唱団」と、「杉並区民オペラ ミュージカル・プール」の子どもたちが出演する。

 

 どんなステージになるのか、今から本当にワクワクする。

 江原さん出演ということもあり、チケットが早々に完売する可能性があるので、申し込みはお早めに・・・。(ちなみに、先行発売は8月1日より渋谷区でされており、江原さんの貸し切り公演も、既に客席数を遥かに越える多数の応募が来ているので、もしかしたら、一般発売の8月13日には予約が殺到するかもしれません。)

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

2018-08-09 11:34:02

渋谷こどもオペラ・2

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(承前)

 

 ――あれから一年、経つんだね・・・。

 ――そうか・・・、もう一年になるんだ・・・。

 あの狂おしい夏を思い出す。うめきにも似た倦怠感の漂う独特な口調で交わされるこの会話は、実は、僕にとって、特別な感情=誇らしささえ感じられる響きなのである。本当にかけがえのない貴重な経験であった。

 実は、あれから、僕はまったく別の音楽家になったように思う。いや、ようやく、音楽家として、スタートラインに立ったのではないか・・・と思っている。・・・それは、音楽するための「考え方」や「態度」、また「臨み方」や「やり方」ということを、つまり、音楽する上で、「本当に大切なこと」を、この現場で学べたと思っている。このことは、僕にとってとても大きかった。

 40歳にして、ようやくスタートライン。・・・そんな自分に少々愕然ともするが、それは仕方のないこと。けれど、逆に言えば、芸大を出たからと言って、(このような意味で)誰もがスタートラインに立てるとは限らず、ここまで自らを高めることができたのは、本当にありがたいことである。・・・これは、僕ひとりの力ではなく、これまで僕に携わり、いろいろなサポートをしてくださった方々、また一緒に音楽してくださった方々があってのことである。感謝してもしきれない。

 

 このようなことを自ら実感できるのには、いくつか理由あるが、それが特に如実に表れていると思うのは、音楽することがより楽しくなった・・・ということだ。(もちろん、音楽家として、それは当然のことであろうが・・・。楽しい・・・にも、いろいろなレベルがあると思うけれど、より興味を持ち、より探求したい、より労力をかけたい、と思うようになったのである。)

 これまでよりも確実に、じっくりと音符に向き合っているし、また歌詞と向き合っている。そして、多角的にその奥行きを考察し、想像を膨らませ、作品の奥義を味わい尽くそうとする。それはもちろん、僕の解釈ということである。

 そして、自分の美意識をとことん信じ、あらゆる方法を使って、それが最良の形で音に現われるよう努力するのである。譜読みと稽古。そして、ステージへ。この三要素が絶妙に噛み合って、はじめて、充実の音楽、充実の活動ということになるだろう。(恥ずかしながら、これまで、僕はその能力を身につけていなかったし、どうやったらいいのかさえも分からなかった。それなりに経験は積んできたが、たぶん、これまでは独りよがりで、感覚に頼り過ぎていたように思う。)

 

 それから、大きく変化したと感じるのは、自分の「声」が、とても開放的になってきたことである。まだまだ伸びしろを充分残しながらも、「これぞ」というものを掴んできた・・・と思えるのは、声楽家を志した僕にとって、この上ない喜びである。

 一流の歌手と3ヶ月、毎日、音楽を共にしてきたのだ。否が応でも、自分の声や審美眼にとって、いい影響があったのは間違いない。それに、とても幸運だったのは、僕は共演者、またはライバルとして歌手の側にいたのではなく、指揮、または裏方の側にいたので、どういう時に、どういう声が求められているのかを、つぶさに感じることができたのだ。それは、自らの「発声法」という狭い枠を越えて、自らの声を総合的に、考え直すきっかけになったのではないかと思う。

 このことにとって、一番の自信を得たのは、オーケストラ稽古の際、全部の役を、僕ひとりで歌いきった経験である。あの時、自らの「発声法」(または「音楽性」)ということだけで歌っていれば、到底、歌いきることはできなかった。そうではなくて、簡単に言えば、その時、そこに求められたリズムや音程を、または表情を、僕は声に出せばよかったのである。それはつまり、僕にとっては、まったく「客観的な声」と言ってもいいものであった。自分の声を客観視することは、一番難しいことだと思うが、そうすることで、逆に足りない技術が明確になり、更に磨かれるということがあるだろう。

 

 あれから一年が経ち、改めて思うことは、もしかしたら、このプロジェクトで、一番勉強させていただいたのは、誰でもない、この僕だったのかもしれない・・・ということである。数億円の大プロジェクト。超一流のアーティストを揃えた大プロジェクト。仮に、これが学校であり、僕に勉強をさせるためだけのプロジェクトだった・・・と考えたら、本当に身震いしてくる。・・・オペラ制作のあらゆることを、一から十まで、この眼で見て、そして体験させていただいたのである。

 ・・・ふと、思い出した言葉がある。僕が副指揮を三枝さんから頼まれた時、言われた言葉。

 ――「君の未来を考えて、今回、僕の最新オペラの副指揮をやってもらいたい。」

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

2018-08-09 11:32:34

渋谷こどもオペラ・1

テーマ:ブログ

 ――あれから一年、経つんだね・・・。

 ――そうか・・・、もう一年になるんだ・・・。

 茹だるような暑さとは少しかけ離れた、うめきにも似た倦怠感の漂う独特な口調で交わされるこの会話・・・。・・・その瞬間、僕らの頭の中で、さまざまなことが驚くべきスピードで回想される。・・・狂おしき、狂おしき、狂おしき真夏。それは、こんなにも健康な僕が、ストレスで物が食べられなくなってしまったほどの凄まじい現場だった。すべてが、僕の浅はかな予想を遥かに越えていて、それを消化できなかったのである。それは、単に経験不足、勉強不足・・・といった要因が大きかったことは確かだ。しかし、この上演にあたって、僕ら音楽スタッフだけでなく、さまざまな部署で、いろいろな段階において、困難を極めたことは間違いない。・・・本当にいろいろなことがあった。

 ・・・けれど、特筆すべきことは、誰ひとりとして逃げ出すことなく、自らに課せられた困難に真っ向から立ち向かい、自らの力で克服し、ひとつひとつを、あの大成功の舞台に確実に結びつけていったということ。このことは、本当に感動的なことであった。

 

 ものづくりの現場において、「できない」ということは、ない。しかし、「できる」という保証も、どこにもない。しかも、「できる」には、各々、納得するレベルがある。それは、自分のやれることでやるのではなく、自らの限界を超えていく・・・という設定を各々がしていくのである。そこを妥協しないのが、真のアーティストというものであろう。そうして、どの段階においてかは、それぞれであるが、自らの理想とする青写真を見定めなければならない。それは早いほうがいいだろう。公演日は決まっている。チケットも売れている。やらない、できない、ということはない。僕らは、やるしかない。(・・・もちろん、これらのことは、プロとして、ごく当然のことである。)

 

 当時、僕はどういう訳だか、「できない」というイメージからスタートしてしまった。それもその筈である。どう考えても、到底、実現できそうにない楽譜なのだから・・・。三枝さんは渾身の力で、自身初となる「喜劇」を書いた。喜劇にするために、ありとあらゆる工夫を凝らした。結果、超難解な音符になった。・・・僕らは当時、口を揃えて言っていた。

 ――「楽譜が送られてきました。封を開け、楽譜を机に置き、ページを開きました。・・・そして、静かにページを閉じました。」

 再びページを開くのには、それ相応の覚悟が必要だった。それは、一度、見なかったこと、無かったことにしたのだから・・・。

 

 しかし、僕の浅はかな予想に反して、稽古がスタートすると、誰もが果敢に取り組んだ跡が明確に現われていた。みんな、早くそれを自分のものにしよう・・・と、本気の闘いは既に始まっていたのである。「できない」を「できる」に変える信念をもって・・・。・・・そういった意味において、僕は確実に出遅れていた。それを早く取り戻し、かえってリードする立場にならなければならなかった。副指揮者として、あらゆる分野の「役に立つ」ように・・・。

 新作オペラ『狂おしき真夏の一日』に、すべてを捧げ、すべてを懸けた3ヶ月間・・・。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

2018-07-20 00:53:43

ヴォクスマーナ第40回定期演奏会

テーマ:ブログ

◆ヴォクスマーナ第40回定期演奏会

【日時】7月24日(火)開演19:00

【会場】東京文化会館・小ホール

 

【曲目】

・松平頼暁「Constellation 2」(委嘱新作・初演)

・平石博一「In The Distance」(委嘱新作・初演)

・南 聡「“改造コメディ„への追加の1ページ / 月のマドリガル 」op.64

 若干の演技と小道具を伴う12人の声楽家とオブリガート・ピアノのための小品(委嘱新作・初演)

 ピアノ:篠田昌伸

・福井とも子「elastic exercise」(委嘱新作・初演)

・池田拓実「Vague Objects」(委嘱新作・初演)

・伊左治直「二つの日記」(アンコールピース16委嘱新作・初演)詩:鈴木淳子

 

【出演】声楽アンサンブル「ヴォクスマーナ」

Sop:稲村麻衣子、神谷美貴子、花嶋千香代

Alt:依岡和佳奈、入澤希誉、高橋陽子

Ten:金沢青児、清見卓、初谷敬史

Bas:小野慶介、牧山亮、松井永太郎

指揮:西川竜太                                

 

 

■定期賛助会員と新作委嘱活動支持会員募集

 ヴォクスマーナは、今年度の定期賛助会員と第40回記念定期演奏会の新作委嘱活動支持会員を募集しています。私たちの活動をご理解いただき、ご支援くださいますよう、よろしくお願いいたします。

 ★定期賛助会員(年間2公演)一口 ¥15,000

 ★新作委嘱活動支持会員(第40回)一口 ¥20,000

◇お問い合わせ:ヴォクスマーナ事務局 voxhumana_info@hotmail.com

 

by.初谷敬史

2018-07-17 08:19:06

カーネギーホール凱旋公演・3

テーマ:ブログ

(承前)

 

 ニューヨークから帰国し、凱旋公演のためのとある合唱練習の後、僕は三枝さんに尋ねました――眞木さんのお墓はどこにあるのですか?

 練習場からさほど遠くないそうですが、詳しく紙に地図を書いてくれました。それをもとに、この坂を上っていって、ここに鐘つき堂があって・・・などと、丁寧に説明してくれたのですが、突然、こう言いだしました――今から行くなら、一緒に行かないか?

 練習がすこし早く終わった日曜日の午後でした。僕は夜にあるほかの練習まで、時間を持て余していました。今日、お墓の場所を聞いて、日を改めて行こうと思っていたのですが、三枝さんが一緒に行ってくれるのならば、そんなにありがたいことはありません。三枝さんも、今日中に名古屋に移動すればいいというので、ちょうど時間に余裕があったのです。

 

 さっそく、僕は車を出し、三枝さんが助手席に乗りました。――乗せてもらうのは初めてだな・・・などと、やさしく声をかけてくれました。日曜日の東京はとても穏やかで、僕らはわずかなドライブを楽しみました。他愛もない会話に夢中になっていると、曲がり角を見落としてしまいました。――さっきの角だったかな・・・。商店街には似たような一方通行の曲がり角が多いのです。僕の咄嗟のUターンもスムーズにいき、何となく楽しい遠回りとなりました。

 坂を上りお寺に着くと、敷地は三枝さんの地図の通りになっていました。――そこに停めよう・・・と、馴れた感じで、細かく指示をくれました。僕らは車を降りて、墓地に入りました。・・・高台にあるお寺は、とても静かで、豊かな木々に囲まれていました。禅宗の寺らしく、どこもよく整えられていて、明るく、清々しさを感じます。都内のど真ん中とはとても思えないほど、ここにはゆっくりとした時間が流れており、ごく個人的な温もりさえ感じることができるほど、こころ温かい墓地でした。・・・死はもっとも尊敬され、遺族によって、とても大切にされているのでしょう。さほど広くはありませんが、亡くなった方はここで憩い、そして弔う人も、こころ穏やかに、ゆっくりと故人を想い、祈ることができるような空間だと思いました。

 

 三枝さんは、何本目だったかなぁ・・・と、眞木さんのお墓を探しましたが、筋は何本もないので、すぐに見つけることができました。・・・僕は「眞木」という文字を見て――あっ、眞木さんだ・・・と想い、昔を懐かしんでいると、三枝さんはもう、手を合わせ終えていました。僕は、いろいろ伝えたいことや話したいことがありましたが、遅れを取るまいと、すぐに手を合わせました・・・。短い時間でした。突然だったので、線香も花もありませんでした。けれど、僕と三枝さんとで一緒に行って、想いが伝わらないわけはありません。・・・きっと、僕の成長した姿を見てくれたと思うし、三枝さんも元気で、合唱団が変わらずに活動していっていることを、嬉しく思ってくれているのではないかと思います。

 

 三枝さんは、それから回り込んで、眞木さんのお墓の反対側に僕を連れて行きました。背中合わせにあるのは、三枝家のお墓でした。――ここが、僕のお墓だ・・・と、すこし誇らしげに僕に説明してくれました。

 ・・・かつて、これと似た経験をしたことがあります。・・・亡くなった父が、生前に墓地を買った時、僕を案内してくれたのです。お彼岸の時だったか、先祖のお墓参りを終えて、父と僕は、ちょっと遠回りをしました。――ほら、敬史、いいところだろう!・・・父の墓は高台にあるので、とても眺めがよく、本堂や池、山間のお堂などが見ます。竹林の風もさやさやと、ここに入るなら幸せだ、と、僕はその時思いました。

 死を見据えた人というのは、亡くなってから家族に迷惑がかからないように、自分の墓は、自分で決めるのでしょう。そしてそこを、元気なうちに誰か大切な人にしっかりと伝えておくのだと思います。・・・そんな時、すこし寂しい感じがしますが、それは、自分が死んだ後も、自分というものをベースに、そして、それを乗り越えて、しっかりと未来を生きていってもらいたい・・・という自分の死をかけた明確なメッセージなのだと思います。そして、お墓にお参りに来ることによって、自らの原点を確かめ、努力や成長といったものをその都度報告することが、残された者、そして未来を託された者の、務めなのかもしれません。

 三枝家のお墓には、ベンチがついており、三枝さんはそこにひょいと座りました。――ほら、こうすると、ゆっくりお参りができるんだ・・・、と墓標をやさしく撫でながら説明してくれました。

 

 それから、散歩がてら、墓地をぐるりと巡りました。そこはいろいろな有名人のお墓がありました。それをひとつひとつ説明してくれました。そう、みんな仲良しなのです。・・・このような墓地は、とてもいいものです。生前も、亡くなった後も、みんなで一緒にいるのですから・・・。そう思えば、死ぬのも怖くないかもしれません。

 

 僕は帰り道、三枝さんに提案をしました。サントリーホールの凱旋公演で、眞木さんの遺影を、合唱団のバス・パートの列に一緒に掲げたい・・・と。すると、三枝さんも、そう考えていた・・・と言いました。

 何か本当に、いいお墓参りができました。奇遇にも、その日は、眞木さんの命日の二日後でした。・・・もしかすると、眞木さんと三枝さんと僕と、何か不思議な力によって、引き合わせられたのかもしれません。・・・やはり、何か、特別なものを感じます。

 

 ***

 

 サントリーホールでのカーネギーホール凱旋公演は、何も大げさなものではありません。ごく個人的な想いの詰まった、温かいコンサートとなるでしょう。僕もメンバーと共に、僕らの歌を、こころを込めて歌いたいと思います。六本木男声合唱団のひとつの集大成となるでしょう。

 

◆六本木男声合唱団 ZIG-ZAG「カーネギーホール凱旋公演」

【日時】7月18日(水)開演19:00

【会場】サントリーホール

【曲目】三枝成彰『最後の手紙』

【出演】指揮:大友直人、管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団、合唱:六本木男声合唱団 ZIG-ZAG(コーラスマスター:初谷敬史)、ナレーション:林和夫

 

by.初谷敬史

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