たんぽぽの夢・6(第一部) | 孤独な音楽家の夢想

たんぽぽの夢・6(第一部)

(承前)

 

 それでは、プログラムの順を追って、「たんぽぽの夢」の演出プランを、簡単に説明していこうと思う。

 

●第一部

 舞台照明は、チラシのデザインに似ている。下方は「こちら」を象徴する「花畑」、上方は「あちら」を象徴する「天」、それを中央の太い「光の筋」がまっすぐに繋いでいる。舞台後方には「花畑」を象徴する飾りがある。

 舞台上手に指揮者と合唱団員の半数が登場し、指揮者を中心にひとつの「綿毛」を作る。少し間をおいて、舞台下手にピアニストと合唱団員の半数が登場し、ピアニストを中心にひとつの「綿毛」を作る。指揮者・ピアニストを含め、全員がひとつずつ「花鉢」を手に持っている。まるで「綿毛」にぶら下がった「種」のように・・・。少し経って、上手の「綿毛」が、「神秘の風」に舞い上がるように、舞台全体に広がって飛んでいく。また少し経って、下手の「綿毛」が、「神秘の風」に舞い上がるように、舞台全体に広がって飛んでいく。そして、それぞれの「綿毛」が、地面に着地するように、それぞれの位置に着く。指揮者は指揮台に。ピアニストはピアノのところに。そして、「種」を土に根付かせるように、静かに「花鉢」を足元に置く。そして、それぞれが自分の椅子に座る。合唱団員は色とりどりの衣装を着ているので、そこがまるで花畑のように見える。

 

◆第一場:予感

 

オルフ:カンタータ《カルミナ・ブラーナ》より 第1部「初春に」 1. PRIMO VERE

♪〈春の愉しい面ざしが〉Veris leta facies

 空を「綿毛」のように自由に飛んできた合唱団員は、それぞれの場所で動けなくなり、椅子に座っている。「冬」から「春」へ、世界が「移行」する時、ノックのような前奏の3つの同じ音型(G-A-E-G-D-F-E)が鳴り響く。(・・・このコンサートは、この不可思議な音型が、「移行」という神秘の扉を開く。それに続く「空虚五度」の響きは、ものごとのはじめに相応しく、ものごとがゆっくり動いていくのを許容してくれるようだ。)この3つの音型に合わせて、「たんぽぽ」の「種」が、土から新芽を芽吹かせるように、合唱団員は、それぞれのタイミングでゆっくり立ち上がる。・・・彼らは「移行の夢」を見ながら成長し、やがて花を咲かせるのである。

 

♪独唱〈万物を太陽は整えおさめる〉 Omnia sol temperat

 独唱者(中世の騎士)は、「太陽 sol」(神)の神秘で、「新しい世界 nova mundo」(あちら)が開かれるのを予言する。曲の途中で、どこからともなく「太陽」(神)によって起こされる「神秘の風」(聖霊)が吹いてくる。独唱者はじめ、合唱団員全員が、「たんぽぽ」の花ように「風」に揺れる。この「風」には霊力があり、謂わば「移行」の魔法が掛けられるのである。この神秘を受けた花は萎れ、いよいよ「綿毛」になる準備をする。

 

♪〈見よ、今は楽しい〉Ecce gratum

 「綿毛」をつけた茎が、「神秘の風」を受けるために、他よりも高く伸び上がろうとするように、合唱団員は、それぞれのタイミングで、勢いよく真上に飛び上がる。いよいよ「春」が現実のものとなろうとしている。それは、本当の「春」=「新しい世界」(あちら)を予感させるものである。そこには、何かしらの高次元のエネルギーが必要とされる。

 ・・・きっと、「あちら」が実現される時、ものすごい量の霊的エネルギーが必要とされるのだと思う。それは、きっと、「こちら」が実現される時も同じだ。「あちら」から「こちら」に出でる時、つまり産みの苦しみと、「こちら」から「あちら」に出でる時、つまり死の苦しみは、同じ質と量の霊的エネルギーであると考えている。そしてそれが、「こちら」と「あちら」で、幾度も繰り返される。世界はこれを繰り返している。

 ・・・この《カルミナ・ブラーナ》の3曲で、「たんぽぽ」の「花」から「綿毛」への「移行」が示された。

 

木下牧子:合唱曲《地平線のかなたへ》より

♪〈春に〉 詩:谷川俊太郎

 この詩を、先ほどの続きとして捉え、「たんぽぽ」の気持ちとして読み替える。「たんぽぽ」は、「花」から「綿毛」への「移行」を全身で感じ、言いようのない違和感を「予感」として訴える。そして詩の後半、「たんぽぽの夢」が具体的に語られる——「あの空の あの青に 手をひたしたい」「まだ会ったことのない すべての人と/会ってみたい 話してみたい」「地平線のかなたへと 歩きつづけたい」「そのくせ この草の上で じっとしていたい」・・・「綿毛」が空を飛ぶ前に抱く、複雑な胸の内である。

 

◆セレモニー1

♪賛美歌238番〈疲れたる者よ〉

 ピアニストが賛美歌をゆっくり弾きはじめる。これは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(『マタイによる福音書』11章28節)や「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」(『ヨハネによる福音書』7章37-38節)に関連する内容である。

 合唱団員が扮する「移行」の象徴「綿毛」は、この賛美歌の言葉を信じ、また、この言葉に従って、空を飛んでいく。合唱団員の内1/3の人は、ここで、足元に置いてある「花鉢」を手に持って、舞台前方へと飛んでいき、「花鉢」を運んでいく。そして、そこに「花鉢」を置く。・・・この行為は、いろいろな意味を含んでいる。以下、例を挙げておく。

 

・コンサートの副題「あなたに捧ぐ、歌の花を。」にある通り、聴きにいらしたお客様に花を届けに行くという意味。

・星野富弘さんをはじめ、すべての死者への追悼献花の意味。

・コンセプト「たんぽぽの夢」の通り、自らが「綿毛」となって、大切なものをひとつ持って、「こちら」から「あちら」へと、自由に飛んでいくという意味。

・イエス・キリストの説く「種を蒔く人のたとえ」のように、神の言葉をあらゆる人に伝えようとする意味・・・。

 

 この賛美歌は、ト短調の短旋律ではじまり、やがてハーモニーが付けられる。これをピアニストは、迷いながら、ゆっくりと、しかし確実に弾き進めていく。それは、人が、「こちら」で迷い、苦しみ、時に立ち止まりながらも、己の道を探しながら、懸命に生きていくのと同じである。やがて、ト短調はト長調へと変わり、温かく豊かなハーモニーがホールに満ちる。それは、まるで「こちら」から「あちら」へと「移行」したかのように聴こえる。・・・この賛美歌は、このコンサートのコンセプトを象徴しており、これによって第一部が導かれていく。

 ちなみに、星野富弘さんは、この賛美歌にあるイエス・キリストの言葉によって、キリスト教へと導かれていった。星野さんの著書『愛、深き淵より』(学研)には、次のように書かれてある——「「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎがきます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11章28〜30節) この神の言葉にしたがってみたいと思った。クリスチャンといえる資格は何も持っていない私だけれど、「来い」というこの人の近くにいきたいと思った。」(「Ⅴ 絶望のはてに」より)、と。

 

◆ナレーション1

 賛美歌がト短調からト長調に変わると、指揮者はマイクで次のことを語る。

 ——皆さん、こんにちは。本日は「足唱コンサート」にようこそお越しくださいました。「あなたに捧ぐ、歌の花を。」と題しまして、コンサートの前半は、「春」に関連するさまざまな曲を集めてみました。はじめにお聴きいただきましたのは、オルフ作曲、カンタータ《カルミナ・ブラーナ》から3曲、そして、木下牧子作曲〈春に〉でした。

 今回の演出は、プログラムにも記しましたが「たんぽぽの夢」というコンセプトです。「たんぽぽ」は、種が根付いたところから、一歩も動くことはできません。まるでそれは、私たち自身のように思われます。しかし「たんぽぽ」は「綿毛」になることで、遠く、遠く、飛んでいくことができるのです。そこに、私たちは、唯一の希望を託したい・・・と願っているのです。

 次に演奏するジャヌカン作曲〈美しいこの五月に〉は「出会い」が、そして小林秀雄作曲〈あなたと わたしと 花たちと〉は「旅」が描かれます。いずれも「わたし」と「あなた」が登場しますが、シェイクスピア『ロミオとジュリエット』のように、このふたりの「愛」は、「ここ」では成就されません。「綿毛」に乗って、遠く、遠く、飛んでいって、「あちら」で、本当の「愛」が結ばれるのです。

 

◆第二場:旅へ

 

クレマン・ジャヌカン:

♪シャンソン〈美しいこの五月に〉 A ce joli mois

 厳しい「冬」を越え、今や、楽しい「春」がやってきた。春の祭に行われる仮面舞踏会である。男と女が輪になって入り交じり、恋の相手を探している。「たんぽぽ」として捉えるならば、受粉ということかもしれない。・・・これを僕は、いわゆる世俗的な性愛の出会いと捉えずに、「騎士道的愛」(Amour courtois、Minne)の出会いと捉える。シェイクスピア『ロミオとジュリエット』の仮面舞踏会における出会いの場面——「手の平の触れ合いは、巡礼たちの口づけ」(第一幕第五場)のように・・・。つまり、ダンテやペトラルカが語ったように、これは、現世では成就しない愛である。死をもって成就されるのだ。僕たちはここで、もうひとつの悲劇『トリスタンとイゾルデ』も思い出さなければならないだろう。

 ・・・厳しい「冬」を「こちら」と捉え、楽しい「春」を「あちら」と捉えてみるならば、この「春」は、本当の「春」ではない。且つ、「こちら」での「愛」も、まだ本当の「愛」ではない。

 これに、キリスト教における「花婿」と「花嫁」の表現を当てはめてみようと思う。この表現は『聖書』のいろいろなところに示されているが、ここでは、最も愛について描かれてある『雅歌』のキリスト教的解釈を参考にしてみることにする。「おとめ」は、「わたしはシャロンのばら、野のゆり」(2章1節)と言う。それに対し、「若者」は、「おとめたちの中にいるわたしの恋人は/茨の中に咲きいでたゆりの花」(2章2節)と答えた。更に「おとめ」は、「若者たちの中にいるわたしの恋しい人は/森の中に立つりんごの木。/わたしはその木陰を慕って座り/甘い実を口にふくみました」(2章3節)と答えた。・・・これは『旧約聖書』の中にありながら、やがて『新約聖書』によって明らかにされる「花婿」である「イエス・キリスト」と、「花嫁」である「教会」(信仰者)の奥義である。「花嫁」は「こちら」で「花婿」と出会い、そして、婚約を結ぶ。しかし、「花婿」は「こちら」では不在となる。再び「花婿」が「こちら」にやってくる時、それは「あちら」での準備を整え終え、迎えにくる時である。『ヨハネによる福音書』には、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える」(14章3節)とイエス・キリストが明確に語った。そうして、「花婿」と「花嫁」は、「あちら」で晴れて結婚するのだ。・・・それが本当の「春」であり、そこで本当の「愛」が実現するのである。

 僕たちはこの喜ばしい「春」に、そして、喜ばしい仮面舞踏会において、いずれやって来る、本当の住まいへの「旅」へと、誘わなければならない。

 

小林秀雄:合唱曲集《落葉松》より

♪〈あなたと わたしと 花たちと〉 詩:峯陽

 〈美しいこの五月に〉において、キリスト教における「花婿」と「花嫁」の解釈が成立し得ると、いよいよ、この楽曲でのキリスト教的解釈が明瞭となる。そうすると、「あなた」とは「花婿」である「イエス・キリスト」。「わたし」は「花嫁」である「教会」(私)。とすると、「花たち」とは、真理の霊である「聖霊」となるだろうか・・・。

 しかし、注目すべきことは、「五月の花が咲いたら」「五月の風が吹いたら」という仮定が、条件として語られることだ。つまり、まだ、この「旅」は実現されていないわけである。「冬」から「春」(五月)への神秘の「移行」が条件であり、そして、「神秘の風」が吹くことが条件となっている。また、「あなた」(花婿)を前提とするならば、仮の「春」における「婚約」(騎士道的愛の出会い・たんぽぽの受粉)が絶対条件である。これらの神秘に導かれ、「わたし」(花嫁)は「綿毛」となって、「あちら」への「旅」に出かけるのだ。

 しかしながら、本当の「旅」は、歌詞にあるとおり、「あなた」(花婿)と「わたし」(花嫁)が一緒でなければならない。けれども、この詩は、「あなた」(花婿)が不在とも読める。そこで僕は、まだここでは「花婿」が迎えにきていない、という段階である、と解釈する。つまり、まだ「たんぽぽ」は、「たんぽぽの夢」を見ているに留まっているのだ。

 尚、作詞者の峯陽(みね よう、本名 上坪陽 かみつぼ ひかり)さんは、今年3月6日に92歳で亡くなられたそうだ。この詩にある通り、素晴らしい旅に出かけられたのだろう。ご冥福を祈りたいと思う。

 

◆セレモニー2

♪賛美歌238番〈疲れたる者よ〉

 合唱団員の内1/3の人は、ここで、足元に置いてある「花鉢」を手に持って、舞台前方へと飛んでいき、「花鉢」を運んでいく。そして、そこに「花鉢」を置く。

 

◆ナレーション2

 賛美歌がト短調からト長調に変わると、指揮者はマイクで次のことを語る。

 ——次に私が歌いますのは、ドビュッシーの歌曲〈ひそやかに〉です。夕暮れの美しい庭園で、愛する男女がまどろみ、一体になろうとしています。そこへ、愛をさえずるナイチンゲールの声が聞こえてきます。しかし、ふたりが聞いたのは、愛し合うふたりの「絶望の声」だったのです。・・・そう、ふたりは「ここ」で、本当の「愛」を結ぶことはできないのです。「ここ」は、「深い淵の底」なのですから・・・。

 ナイチンゲールの声に誘われて、次に演奏するのは、ジャヌカン作曲〈鳥の歌〉です。さまざまな鳥がさえずるこの森は、パリの宮廷でしょう。彼らはきらびやかに着飾り、恋のおしゃべりを楽しんでいます。しかし、彼らに聞こえてくるのは、やはり「絶望の声」だったのです。・・・そう、「ここ」も「深い淵の底」なのですから・・・。

 

◆第三場:絶望の声(Voix de notre désespoir)

 

ドビュッシー:歌曲集《艶なる宴Ⅰ》より

♪独唱〈ひそやかに〉 En sourdine  詩:ヴェルレーヌ

 ヴェルレーヌが描いたのは、美しい庭園で繰り広げられるイタリア喜劇役者に扮した上流階級の人々の恋の宴「フェートギャラント fêtes galantes」である。(演出は、ジャヌカン〈美しいこの五月に〉の恋の行方、という風な仕掛けである。)けれど、仮面舞踏会で歌い、踊り、恋を語っているこの舞台は、所詮、まやかしにすぎない。仮面の下には、生の悲しみが張り付いているのだ。・・・今や、宴は終わった。しかし、夕暮れの静寂の中で、男と女は一体になろうと、まどろんでいる。そこに「神秘の風」——「ふたりを優しく揺する風 Au souffle berceur et doux」——が吹く。瞬間、ふたりに聴こえてきた声、それは何と、愛を歌うはずのナイチンゲールの「絶望の声」だった。これは、恋するふたりの嘆き祈る「絶望の声」である。

 ドビュッシーは後奏に「En se perdant」(次第に消えていく)と記した。「perdant」とは、敗北者という意味を持っている言葉だ。・・・そう、ここはヴィーナスのいる美しいシテール島でも、最愛王ルイ15世の通う森の娼館でも、古都ベルガモの丘の上でもない。ここ(こちら)は、絶望の淵、「深い淵の底」なのだ——「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」(『詩篇』130章1-2節)

 

クレマン・ジャヌカン:

♪シャンソン〈鳥の歌〉 Le Chant des Oiseaux

 ナイチンゲールが「絶望の声」で鳴いているのは、〈ひそやかに〉だけではない。〈鳥の歌〉では、ナイチンゲールの他にもいろいろな鳥が鳴いているが、この美しい森も、まるで、「艶なる宴」(fêtes galantes)そのものである。・・・ここは、宮廷という美しい森なのだ。ルネサンス・パリの宮廷の人々は、皆、きらびやかに着飾り、まるで鳥のように、ぺちゃくちゃと喋っている。当然、この恋の歌はすべて、虚構であり、まやかしである。騒げば騒ぐほど、むなしい。なぜなら、綺麗な羽根をむしってしまえば、皆、生の悲しみが張り付いているのだから・・・。・・・そう、ここ(こちら)も、「深い淵の底」である。

 

♪村井邦彦:〈翼をください〉(編曲:黒田賢一) 詩:山上路夫

 ・・・「絶望の淵の底」(こちら)から叫ぶ声——それは、「白い翼」を求める祈りである。悲しみのない、自由な空(あちら)へ。これはまさに、「たんぽぽの夢」である。・・・そう、「白い翼」とは、「移行」の象徴「綿毛」のことである。

 

◆セレモニー3

♪賛美歌238番〈疲れたる者よ〉

 合唱団員の内1/3の人は、ここで、足元に置いてある「花鉢」を手に持って、舞台前方へと飛んでいき、「花鉢」を運んでいく。そして、そこに「花鉢」を置く。

 

◆ナレーション3

 賛美歌がト短調からト長調に変わると、指揮者はマイクで次のことを語る。

 ——それでは、第一部の最後に、私が作曲した〈楽譜を開けば〉という作品を演奏したいと思います。合唱が制限されていたコロナ渦で、高崎の合唱団に所属する中学2年生の男の子、加藤春貴くんが、何かを持って僕のところに嬉しそうに近づいてきました。何と、自作の詩を書いてきたというのです。そこには、歌が好きなのに、歌えなくなってしまった悲しみが書かれてありました。・・・すると、どこからともなく、たくさんの悲しみの声、そして、たくさんの「絶望の声」が聞こえてくるように感じました。これらの声を、そのまま閉じ込めておくわけにはいかない・・・と思いました。そこでピアノの前に座ると、不思議なことに、自然と音楽が溢れてきたのです。閉じ込められた「絶望の声」を、未来へと開くために・・・。

 

◆第四場:予言

 

♪初谷敬史:〈楽譜を開けば〉 詩:加藤春貴

 コロナ渦の2023年2月27日に、自宅のピアノの前に座って、心の奥の、奥から、聴こえてきたのは、懐かしい短調の調べだった。これは、ずっと、ずっと昔の、魂の記憶であろう・・・。もしかして、鳥がはじめて「絶望の声」をあげて鳴いた時のように、人類がはじめて叫んだ時の記憶かもしれない・・・。それは誰が、いつ、どこで、どんなふうに叫んだのか・・・。愛か、喜びか、悲しみか、それとも絶望か・・・。・・・あの時の僕には、その強烈な叫び声が、遠く、遠く、聴こえてくるような気がした。・・・この懐かしい短調の調べには、そんな人類の太古からの記憶が重なっているのだ。そして、僕たちには、その太古からの記憶を、未来へ繋いでいく使命があるのだろう。・・・そんなふうにして、この曲は作られた。閉じ込められた「絶望の声」を、未来に開くために・・・。

 ・・・コロナ期に、僕はある「予言」を受けた——「僕が作曲した曲を、足利市民合唱団のみんなが歌っている」・・・というものだ。・・・僕はそれを「まさか!」と不可解に思った。僕は作曲などできない。それでも「予言」は、「いや、そんなことはない。これまでやってきたことなのだから、できる。」と言うのだ。・・・はて、どうしたものか・・・。しかしながら、もしそんなことが実現するとするならば、そんなに素晴らしいことはないだろう。けれども、そんな夢みたいなことが実現するわけはない、とその時に思った。

 ・・・しかし、それが今、実現してしまうのだ。・・・とても不思議なことであるが、魂のレベルにおいて、本当にそういうことがあるのかもしれない。不可能だと思われる夢のようなことが、何かのきっかけで現実のものになる、ということ。・・・僕は感じる——僕は確実に、「こちら」から「あちら」へ、異次元の「移行」しているのであろう、と。

 

◆セレモニー4

 指揮者とピアニストは、足元に置いてある「花鉢」を手に持って、舞台前方へと飛んでいき、「花鉢」を運んでいく。そして、そこに「花鉢」を置く。この時、賛美歌238番〈疲れたる者よ〉のBGMはない。指揮者とピアニストは、そのセレモニーを終えると、「綿毛」のように、入ってきた方と逆の袖へと飛んで消えていく。合唱団も、「綿毛」のように、入ってきた方と逆の袖へと飛んで消えていく。

 

○休みの日に、父との思い出を探しにのんびりと、母とふたりで山へ蕎麦を食べに出かけた。裏の畑にそよぐ、気持ち良さそうな「綿毛」たち。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史