たんぽぽの夢・5(双子のプログラム) | 孤独な音楽家の夢想

たんぽぽの夢・5(双子のプログラム)

(承前)

 

 実はこのプログラム、昨年の「足唱コンサート」のコンセプト「対極点への希求」とよく似ている。なぜなら、前回の演出を考えていた時期に、今回のプログラムを考えたからである。このふたつのプログラムは、まるで、宮沢賢治の童話に出てくる双子の星「チュンセ童子」と「ポウセ童子」のようである。

 どこが似ているのかを、少し説明しておきたい。

 

 プログラム「対極点への希求」では、対極点となる「こちら」と「あちら」とが対比されている。「こちら」と「あちら」は異次元である。舞台には三人の人物、「宮沢賢治」と「プルチネッラ」、そして「モーツァルト」に登場してもらい、それぞれが「こちら」である「丘」に立って、ふたつの中間点である「月」を見上げ、「あちら」と繋がり合う・・・ということを演出した。これは、宮沢賢治が信仰していた『法華経』の、「ひとつの界は、十界を具えている」という「十界互具」の教えから発想を得た。つまり、「こちら」と「あちら」は隔たっているが、「こちら」は同時に「あちら」であり、「あちら」は同時に「こちら」なのである。

 

 一方、今回のプログラム「たんぽぽの夢」でも、対極点となる「こちら」と「あちら」とが対比されている。やはり、「こちら」と「あちら」は異次元である。そして今回は、「こちら」から「あちら」に、どのように「移行」するのか・・・、というところに焦点が当てられている。この「移行」の象徴として、前回は「月」を用いたが、今回は《花に寄せて》の第1曲〈たんぽぽ〉から、「綿毛」のイメージを見出した。

 ・・・「たんぽぽ」は、土にしっかり根を生やし、決して「ここ」=「こちら」から移動することができない。けれど、花を咲かせて、「風」に揺られながら「移行の夢」を見ている。「風」は花から「綿毛」へと変容を促す。「綿毛」となった「たんぽぽ」は、いよいよ「風」という神秘の力によって宙に舞い上がり、大切なものをひとつ持って、「異次元の世界」=「あちら」へと飛んでいくのである。

 ・・・この「綿毛」のイメージは、星野富弘さんの想い、そのものなのであろう。事故で身体が動けなくなってしまった星野さんは、「たんぽぽ」に心を寄せ、まるで自分のようだ、と思った。そんな頃、星野さんは次の言葉に出会う。

 

 「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」(『詩篇』130章1-2節)

 

 ・・・まさに、星野さんは、深い淵の底にいた。僕は、この祈りをコンサートの出発点として捉え、これを「ここ」=「こちら」からの祈りとする。

 星野さんは更に、次の言葉に出会い、希望を見出すこととなる。

 

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(『マタイによる福音書』11章28節)

 

 イエス・キリストの言葉だ。この言葉に従えば、「異次元の世界」=「あちら」が実現するのではないか・・・、と。「あちら」とは、「神の国」での永遠の安らぎ、永遠の生命を得ることである。

 

 ・・・このように、ふたつのコンサートは、「こちら」と「あちら」という「対極」を、「希求」(仏教的祈り)と、「夢」(キリスト教的祈り)によって、ひとっ飛びに繋げよう・・・という大胆な試みなのである。これが、僕たち生きている者、そして、死んだ者の唯一の希望となるであろうと信じて・・・。そして、この祈りをもって、僕は、すべての死者を弔いたい、と考えているわけである。

 

 ・・・余談であるが、最近、特に思うことがある。(・・・それを言えば、このブログのすべてが余談であるが・・・。笑 しかし、僕の生きた証として、いろいろなことを記録しておくのは、悪いことではないだろう。ひとりの人が、どのように生き、そして、どのように死んでいくかを・・・。)・・・僕は、人の魂を弔うために音楽家になったのではないか、ということ。・・・この考えは、歳を重ねるごとに、だんだんと腹に落ちてくるように思う。・・・高校生の頃、人生に悩んで、出家しようと本気で考えたことがあった。そこで、拠り所としようとしたのが、僕が付属幼稚園に通っていた「善徳寺」である。この寺ならば、僕の悩みを解決してくれるのではないか・・・、と。なぜ、そのように思ったのか分からないが、ここの本尊が、薬師如来なのである。・・・僕は、幼い頃から薬師如来と共に生きてきた。だから、僕が本当に悩んだ時に、ここの薬師如来に呼ばれたのであろうと思う。しかし、結局、出家をする代わりに、薬師如来の救い、また導きによって、音楽の道に進むことになった。寺で経を習うように、僕は歌を教わった。僕にとって、僧侶になるか、修道士になるか、音楽家になるか・・・それらは、ほとんど同じことのように思われる。

 

○「久叡館」の庭に咲く「どくだみ」の花。まさに「白い十字架」に似ていた。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史