大阪の佃・2 | 孤独な音楽家の夢想

大阪の佃・2

(承前)

 

 よそ者が入ることが許されない細い路地を、あまりふらふら歩いて、不審者と思われてもいやなので、僕は佃島を後にすることにした。

 千船駅へと戻り、神崎川にかかる千船大橋を渡った。対岸は、大和田村のあったところである。古地図を見ると、ここも、かつては中州だったようだ。

 橋を渡り終えて、スマホの地図と勘を頼りに、かつての大和田村に入る。僅かな標高差や、道の曲がり具合などを慎重に確かめながら、昔の島の形を想像して歩いた。けれども、ここは、地形を把握するのが容易かった。現在の神崎川に沿うように曲がって作られた道は、中央部分が大きく盛り上がっており、ここがかつての堤防だったことが伺える。この道に沿って、独特な形の区画があらわれる。・・・これが、かつての中州の形のはずだ。その突端に神社があった。大和田住吉神社である。大阪佃島と同じように、大和田でも中州を船(木の葉を上から見たような船の形)のように見立て、神社が島を守っているのだろう・・・。この神社も、住吉三神(底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命)と神功皇后が祀られており、田蓑神社(住吉神社)と関係が深いことが伺えた。きっと、田蓑神社から分霊したのだろう・・・。元応2年(1320年)9月19日の勧請と伝えられている。

 

 橋を渡って、なぜ僕がここに来たのか・・・。それは、徳川家康の命によって、大阪から江戸に移住したのは、大坂佃村の人々だけではなかったからである。『佃島年代記』によれば、佃村の漁師27人と、大和田村の漁師6人の33人が、1602年(慶長7年)7月26日に摂津国を発ち、8月7日に江戸に着いた、と記載されてある。・・・彼らは志を共にする仲間だった。

 『大阪の佃 延宝検知帳』(和泉書院 2003年)には、その33人の名が明かされている。東京都杉並区の築地本願寺和田堀廟所にある墓碑に、下記の33人の名が刻まれてあるというのである。忠蔵、忠右衛門、喜兵衞、伊右衞門、宇右衞門、勘十郎、仁兵衞、仁左衞門、太右衞門、孫左衞門、喜左衞門、五郎兵衞、太左衞門、伝兵衞、清兵衞、久兵衞、半四郎、勘左衞門、吉右衛門、善九郎、五左衞門、孫兵衞、善五郎、市兵衞、太郎左衞門、平左衞門、五兵衞、長兵衞、長四郎、長兵衞、太兵衞、六左衞門、庄左衞門(うち長兵衞が重出してあるのは再検を要する)、と。そして、「ほとんどの者の出自は、大阪佃村のうち西嶋にあり、大和田村もしくは村内各所に耕地を有する者ないしはその家族のうちの青年たちが参加したものといえるようである」と説明がある。しかし、この中で、誰が大和田村出身なのかは分からない。

 且つ、江戸に移住したのは、33人だけではなかった。田蓑神社の宮司である平岡正太夫の弟、平岡権太夫好次が、田蓑神社から分霊して祀るために江戸に下り、佃に住吉三神(底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命)と神功皇后、そして、徳川家康の分霊を祀り、住吉神社を創建した。・・・漁民と宮司を合わせて34人。

 

 では、大和田村の人々とは、一体どのような人々であり、佃村の人々とどのような関係にあったのだろう・・・。先ほどの『大阪の佃 延宝検知帳』の説明では、出自が佃村で、大和田村に耕地を有する者とある。けれども、大和田住吉神社を田蓑神社から分霊したとするならば、既に大和田村に住みついていた人々、と考えるのが自然ではないだろうか・・・。つまり大和田村は、佃村とは別の村であり、別の神社があり、別の祭りがあり、別の組織であったと考えられるわけだ。佃村の森孫右衛門が、徳川家康にとって隠密・海賊の頭だったとするならば、大和田村の人々は、その別動隊であったのだろう。(ドラマ『水戸黄門』において、森孫右衛門を「水戸黄門」とするならば、佃村の人々は側近の「助さん」「格さん」であり、大和田村の人々は「風車の弥七」ではないか、と僕は考える。)

 僕がそのように考えるのには、ほかに理由がある。『関東御祓配帳』(貞享2年 1685年)を見ると、江戸佃における島の組織が記載されてある。この資料は、大阪から江戸に移住して83年が経過しているので、既に2世や3世の時代となっている。そこに驚くべきことが書かれてある。佃島の組織は、「名主」をはじめとして、「佃島・組頭衆」と「大和田網衆・組頭衆」とに割り振られていたのだ。それぞれに、指名も記載されてあった。このことから、佃村の人々と大和田村の人々は、一緒に江戸に下り、一緒に佃島に住んだとは言え、それぞれのアイデンティティや血統を保っていた、ということが分かる。つまり、大阪佃村の出身者と大和田村の出身者には、明確な区別があったということになる。これは、大変な驚きである。きっと彫り物も異なっていたのだろう。

 

 そこで、別の資料を見てみる。吉田家旧蔵史料『佃島地わり』(正保三丙戌年三月 1646年)の絵図である。これには、佃島の当時の地割りが書かれている。(移住から44年後の資料である。)地割りは、漢字の「川」の字に、南北3列の区画に分かれていた。佃小橋を挟んで西側に「川」の一画目と二画目、東側に三画目となる。(現在の区画と同じである。)江戸城に一番近い一画目は、北から南へ順に1から9までの番地で地割りされている。他に比べ土地面積が広い。二画目は、一画目同様、北から南へ10から24までの番地で地割りされている。一画目よりも土地面積が狭い。三画目は北から南へ25から36の番地で地割りされており、面積が狭い。広い地割り以外の狭い地割りの面積は平等に見える。きっと、「名主」などの上役は、上位の番地が割り当てられたのであろう。・・・この36の地割りを、そのまま、大阪から来た34人に割り当てたとは、あまりに単純すぎるが、これは的外れではなく、おおよそ、そのようなことがあったのだろう。

 ・・・移住から83年が経過しても尚、「佃島・組頭衆」と「大和田網衆・組頭衆」とに役割が分かれていたという事実から考えれば、僕は、大阪佃村から来た人々と、大和田村から来た人々とでは、割り当てられた区画が違ったのではないか、と推測する。これはあくまで推測なので、専門家の批判を覚悟で述べなければならない。例えば、「川」の字の、一画目と二画目は、佃村から来た人々に、そして三画目は大和田村から来た人々に、という風に割り当てられたのではないか、と。この推論は、大阪の佃村と大和田村の位置関係と、江戸の佃島の形を比べてみると納得できると思う。大阪の佃村と大和田村の間には神崎川が流れており、神崎川の西側に佃村があり、東側に大和田村がある。ふたつの村は別々の島にある。江戸の佃島も、佃川支川を挟んで、西側と東側に島が分かれている。このように考えるならば、大阪に住んでいた時と同様に、佃川支川の西側に佃村の人々が、そして東側に大和田村の人々が住むことは、ごく自然なことのように思われるのだ。

 もし、本当にそうであったならば、それぞれの気質や伝統が、時間と共に混ざり合うことなく、そのまま子孫に受け継がれてきたとしても不思議ではない。決してよそ者を入れない島である。・・・そこで、僕は思うのである。もしかしたら、そうした差異が、現在の住吉講「壱部」「弍部」「参部」の気質や伝統の差異に繋がっているのではないか、と。現在、氏子の地域が広がり、佃一丁目が「壱部」、佃二丁目が「弍部」、佃三丁目が「参部」というように分かれているのだが、それぞれの部で、明らかに気質や伝統が異なっており、それが、それぞれの部のアイデンティティとなっている。

 

 実際に歩いてみると、大阪の佃と大和田では、土地の持つ雰囲気が全く違うことがよく分かる。出自を同じとする彼らは、同じように漁をし、同じように田を耕し、同じように隠密のような役目を担っていたのだろうが、双方には違った気質や伝統があったことが、現在の街の雰囲気から伝わってくる。土地の持つ力であろうか・・・。

 しかし一方で、彼らは、浄土真宗本願寺派の同じ門徒であり、同じ志を持っていたと考えられる。まるで兄弟である。だから彼らは、一緒に苦難を共にすることができた。一緒に戦乱の世を生きぬき、一緒に徳川家康を護り、一緒に江戸に下り、一緒に佃島を埋め立て、一緒に築地も埋め立てた。

 

 僕は恐る恐る、大和田住吉神社の境内に入った。そして、本殿に静かに手を合わせ、田蓑神社で報告したのと同じように、東京の佃から来たことを報告した。

 ・・・けれど、ここでは、田蓑神社で受けたものと異なる印象を受けた。穏やかさや親和性とは程遠く、どちらかと言うと、冷たさや疎外感のような印象を受けた。なぜだろう・・・。同じ神さまなのに・・・。それは分からないが、この殺伐とした雰囲気は、もしかしたら、ここが幾多の戦場となったからかもしれない・・・。場所が特定されていないというが、石山合戦の際に、石山本願寺の支城となった大和田の砦(大和田城)は、この神社を含む大和田5丁目であったと推測されている。この神社に併設された大和田北公園を含む区画の形や雰囲気を見ると、明らかに城郭を思わせるものがある。そうであるならば、この区画を取り囲む道路に見られる、明らかに人工的な道路中央部分の盛り上がりは、かつての堤防が、土塁に作り変えられた跡であるように思われる。間違いなく、ここで多くの血が流れた・・・。

 その菩提を弔うかのように大和田住吉神社の脇に、静かに安養寺が立っていた。また同じ5丁目には善念寺がある。これらは、浄土真宗本願寺派の寺院である。佃村の人々と同じように、大和田村の人々も、住吉神社の住吉講員であると同時に、本願寺の門徒でもあった。門徒であるために、血が流れたのであるが・・・。

 

 ・・・ところで、あの朝、僕がなぜ、心斎橋で、佃島を閃いたのか・・・。それは、今になって思えば、冷たい雨がしとしとと降っていたから・・・と答えることができる。だから僕は、すぐに鶴となって、佃島に舞い降りたい・・・と思ったのだろう。そう、雨が降っていなければ、僕は大阪の佃を訪れるチャンスに巡りあうことはなかったのだ。そんな風に思うと、古の歌が、じんわりと心に沁みてくる。

 

  雨により たみのの島を 今日ゆけど 名には隠れぬ ものにぞありける

 

 これは、紀貫之が詠んだ歌で、『古今和歌集』に収められている。「雨が降っているので、蓑を頼りに田蓑島へ行ってみたが、蓑(みの)という地名だけでは、身体を隠すことができず、雨に濡れてしまった」という意味である。

 

  難波潟 潮満ちくらし 雨衣 たみのの島に たづ鳴き渡る

 

 これも『古今和歌集』に収められている歌で、読み人知らず。「大阪湾の干潟に潮が満ちてきたので、田蓑島の方へ鶴が鳴きながら飛んできたよ」という意味である。「雨衣」(あまごろも)は「蓑」(みの)を導く枕詞となっている。

 

 ・・・この旅は、僕にとって一体、どんな意味があるのだろう。聖地巡礼と言えば、それまでだが、僕にとって大切なことは、やはり、自分のルーツを知るということであろう・・・。僕の生きる今は、遠い、遠い、過去から、確実に繋がってきたものである。別の言い方をすれば、過去の大いなる存在の不可思議な衝動が、現在の僕の不可思議な衝動に繋がっている・・・。だから僕は、その衝動の元となった古の地に、どうしても行って確かめなければならない。そこに実際に立ち、道を歩き、空気を吸い、残像を見て、痕跡に触なければならない。それが、僕の現在を知ることとイコールであるのだから・・・。

 ここは、古い、古い、土地である。・・・軽く弥生時代まで遡ることができる。神功皇后が、三韓征伐(朝鮮半島の馬韓・辰韓・弁韓を征服)の帰途に、船で立ち寄ったのが田蓑嶋(大阪佃村)である。また、『万葉集』には大和田村の景色が詠われ、『古今和歌集』や『源氏物語』には田蓑嶋が詠われた。嵐にあった源義経は、大和田住吉神社で祈った。・・・つまりここは、西国の海運・水運の要所であり、常に歴史の表舞台だった。ここに住む人々は、歴史の渦に翻弄されてきた人々である。そんな彼らが、無意識に突き動かされていたもの・・・、それは、その時を懸命に生きるということであった。そうして、彼らは歴史を作り、死んでいった。けれど、それで終わりではなかった。それは彼らによって準備された次の時代のはじまりであり、次の世代に大切なものを受け継いでいったのだ。そう考えるならば、彼らを突き動かしていた大いなる意志を通して、彼らは永遠に生き続けていると言える。現に、僕はそうした不可思議な力によって、今の僕が、突き動かされているのだ。例えば、念願か、必然か、それは分からないが、ひょんなことから大阪佃や大和田を訪れたこと、そして、このブログを夜中に一生懸命に書いていること、そしてまた、「壱部」若衆の仲間に、酒を飲みながらこれらのことを得意げに話すことなど・・・、一般的には意味不明であり、何にもならないことではあるが、僕はこのように、僕にしかできないことを一生懸命にやっているのだ。だから僕は、そうしたことを一身に受けながら、その時が来るまで、彼らと同じように、懸命に苦しみながら生き抜かなければならない。やや大げさに言えば、それが、僕に課せられた使命なのだと思う。・・・そういうことが、この旅を通してよく分かったような気がする・・・。

 

 

by.初谷敬史