大阪の佃・1 | 孤独な音楽家の夢想

大阪の佃・1

 ひょんなことから大阪に行った。且つ、まとまった時間が空いた。せっかくだから、どこかで遊ぼうとも考えたが、これと言って、どこも興味が湧かなかった。しかも、冷たい雨が降っていた。・・・その時まで、まったく考えもしなかったことだったが、突然、閃いた——佃島。

 

 僕はさっそくスマホを取り出し、地図で場所を調べた。・・・遠くない。僕はこの時、心斎橋の喫茶店で、ゆったりとモーニングを食べていたのだ。

 ・・・なるほど、石山本願寺とは、淀川を挟んで絶好の位置にあるではないか・・・。兵庫の多田神社へも神崎川に船を出せば、そのまま乗って行かれる・・・。船が達者な彼らならば、堺へもすぐに駆けつけることができるだろう・・・。・・・僕は地図を大きくしたり小さくしたりして大阪中を隈なく眺めながら、埋め立てされていない当時の大阪湾の地形などを想像して遊んでいた。「難波八十島」と言うが、まさに、伊邪那岐、伊邪那美の「国産み」のロケーションにぴったりである・・・。・・・さて、神崎川の河口にある中州。ここだ。なるほど、隅田川の河口にある東京の佃島とそっくりだ。江戸における佃島と同じように、ここならば、関西における海運・水運の要所と言っても差し支えないだろう。海の民には、最も相応しい島と言えよう・・・。

 コーヒーを飲み終えるまで、ひとしきりスマホの地図で遊んだ。それからは、僕の行動は早かった。まるで背中に羽根が生えたかのように駅へと一直線。御堂筋線に乗って梅田駅へ。そこで阪神本線に乗り換えて、いざ、千船駅へ。僕はワクワクしながら、広々とした淀川を渡った。まるで、雨の大空を舞う鶴の気分である・・・。約30分の行程。

 

 ・・・念願とは、このことだ。必然とさえ感じる。(ただし、僕自身の念願というよりも、こうなるように決まっていた、という意味である。)新型コロナが流行して、世界から僕が完全に切り離されてしまった時、ここの神さまが繋いでくれた、小さな、小さな縁・・・。ダメになってしまいそうな僕の心に、小さな希望の炎を灯してくれたのだ。・・・もし本当に、人と人との縁が、網の目のように繋がっているのならば、自分の意思に関係なく、縄が細くなったり、太くなったり、結び目が解けそうになったり、より強固に結ばれたり、そこには、何かとてつもなく大きな存在の意志が、働いているのかもしれないと思う。実際、コロナ渦で、僕はとても大切なものをたくさん失ったのも事実だが、反面、とても大切なものをたくさん得たのも事実である。こうしたことは、流動的で、衝動的な運命の悪戯のようにも思える。

 ともあれ、僕はコロナ渦を、何とか生き延びてきた。そして、当初、考えもよらないことであったが、佃住吉神社の例祭にも、佃住吉講「壱部」若衆として参加することができた。新たな仲間と共に、新たな活動がはじまったのである。・・・まだ、結果と言うのには、あまりにも早すぎるが、僕のこうした現在の状況を見てみると、僕を僕たらしめている無意識的な衝動と、この佃島をめぐるいろいろな存在の無意識的な衝動とが、完全に一致した、と思わざるをえない。つまり、これは偶然とは言い難く、どこか、古い、古い、縁のようなものを、僕は感じるのである。でも、それが何かは分からない。隠されているのだ・・・。

 そして今、思いもよらなかったことが実現しようとしている。驚くべきことに、淀川を渡り、大阪の佃島に足を踏み入れようとしているのだ。これまで、全く縁もゆかりもなかった島だと言うのに・・・。

 

 神崎川を渡る鉄橋の車窓から島を確認する間もなく、千船駅に着いた。いや、降り立ったと言った方が良さそうだ。しかしながら、厚い雲が浮かんでいるものの、雨はすっかり上がってしまったようだ。それにはすっかり拍子抜けしてしまったが、実際、街歩きにはありがたい・・・。雨具もなく、ずぶ濡れでは、せっかくの冒険が台無しである。(僕の訪問を受けて、運気、すなわち、ここに存在する無数の大いなる意志が、変化しているとでもいうのだろうか・・・。)

 阪神本線の千船駅は、佃島にある小さな駅だ。駅前は、想像していたよりもずっと殺風景。・・・ここで、間違いない。その独特な雰囲気に、妙に納得した。僕はそこに、東京の佃島の雰囲気を重ねていたし、尚且つ、かつて友だちが住んでいた足立区新田の雰囲気も重ねていた。ここは、古い漁村の跡であり、古い新田の跡なのだから・・・。

 僕はスマホの地図と勘を頼りに、慎重に道を選び、神社へと向かった。「ブラタモリ」ではないが、些細な標高差や、道の曲がり具合なども、昔を知るには、大きな手がかりとなる。「海抜マイナス0.3メートル」の標識は、島を囲む高い堤防を見ればすぐに理解できる。それらを手がかりに、昔の島の形を割り出し、昔の佃村の位置を探っていく。中州なのだから、より高い土地に村を作ったに違いない・・・。とするならば、こちら側が新田だろう・・・。昔の中州の範囲は、その時の水量にもよるが、今よりも狭い面積だろうと思うのだ。・・・とすると、この曲がった道が、川と陸との境ではないか・・・。その憶測をもとに、昔からの神社や寺院、墓地の位置を、地図で確かめる。このように、僕はおおよそ的を絞り、路地へと入っていく。・・・間違いない。ここが漁村の跡だ。そこに東京の佃島の雰囲気を重ねてみる。・・・長く、長く、深呼吸する。まるで、故郷のようだ・・・。来たこともない島で感じる、この懐かしさの不可思議・・・。それは、迎え入れるものと、迎え入れられるものとの、暗黙のうちの親和性であろうか・・・。ともかく、早く、神さまに挨拶をしなければならない。

 

 田蓑神社(住吉神社)は、佃村の一番奥、すなわち、神崎川上流、中州の突端に鎮座していた。神社がこの位置に建てられたのは、その神通力によって、船の難破を防ぐ意味があるのではないか、と僕は考える。きっと、この中州を船(木の葉を上から見たような船の形)に見立てているのだ。神社が巨石となって、川をふたつに分けている。

 ・・・僕は恐る恐る、境内に入った。そして、拝殿で静かに手を合わせ、東京の佃から来たことを報告した。拝殿の奥に社が4つあり、住吉三神である底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命と、神功皇后が祀られていた。そして、拝殿の脇には、東照宮が祀られており、ここが間違いなく東京佃の住吉神社のルーツであることが分かった。・・・神さまは、とても穏やかに、僕を迎え入れてくれたように感じた。東京佃は潮の香りだが、ここは雨の香りがする・・・。

 

 何とも居心地の良い神社だったので、しばらく境内にいて、いろいろなものを見てまわった。それから、漁村の跡であろう雨上がりの細い路地を、隈なく歩いた。路地は、大阪の佃島も、東京の佃島も、佃島を一番、特徴付けるものであろう。・・・狭い路地の空気は、人と人の間の人情と生活とを含んだ空気である。それは、現在も、過去も、変わらずにここにある。・・・路地にこもる独特な雨の香りは、彼らの苦難の歴史を含んでいる。・・・その空気を、深く、深く、吸い込んで、住吉講として参加した例祭のことを思った。

 神さま・・・。彼らは神さまと共に、どのように生きてきたのか・・・。それを容易に想像することはできないが、例祭に参加した僕には、少し感じるところがある。それはきっと、彼らの血の中にあるとも思うし、彼らの気質にあらわれ、彼らの魂そのものである、と言ってもいい。それらは、彼らと彼らの命の絆、つまり、彼らを繋ぐ網の目の間に流れる無意識の衝動のようなものが、彼らを生かし、その苦悩を、生活の知恵・伝統・文化として、幾代にも受け継いで来たのである・・・。これを、神の意志と呼んでもいいし、この島やこの海、そしてこの空気の意志と呼んでもいいし、はたまた、人と人の結びあいの意志と呼んでもいい。・・・そのような大いなるものが存在しなければ、あのような例祭が、今も続いているはずはない。そして、ここ、大阪の佃のこの空気も、東京の佃のあの空気も、近代化の波に呑まれ、とっくになくなっているはずである。どこにも存在しえないこの空気・・・。・・・それが、僕にはよく分かる。

 

 ちなみに、この村には、西法寺や正行寺、明正寺といった浄土真宗本願寺派の寺がある。それは、東京に築地本願寺があるのと同じである。(僕は、彼らと石山本願寺の一向宗と、何か関係があるのではないかと考えている。ちなみに、神崎川対岸の大和田村には、石山本願寺の支城である砦が築かれていた。)

 

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史