中河原こども園「音楽で遊ぼう」・1 | 孤独な音楽家の夢想

中河原こども園「音楽で遊ぼう」・1

 昨年の話になるが、知り合いに園児の歌の指導を頼まれた。その方は、群馬県の「中河原こども園」で、園長をしている。合唱の発表会が近ので、クラスごとに歌の歌い方を教えてほしい、というものである。年少・年中・年長の3クラス。

 ・・・正直、困った・・・と思った。僕は大学を卒業したての頃、一般の中学校や高校で音楽の教師をしていたことがある。けれども、幼稚園となると、別の話である。僕は幼児教育の専門家ではないし、自分に子どもがいるわけでもない。いくら歌と言っても、園児に教えるというのは、全く想像もつかない話である。園児に接したことのない僕にとって、園児はほとんど宇宙人に等しい。なぜ、園長は僕に頼んだのだろう・・・。もっと適任がいるはずである。疑問が疑問を呼び、疑問だらけになってしまった。そもそも、園児とは、どのくらいの背丈なのか・・・、どのくらい正しく歌えるのか・・・、どのくらい話が伝わるのか・・・、ちゃんとじっとしていられるのか・・・、など。そして何よりも、どのくらい歌に対して興味を持っているのか・・・、という「教える」「教わる」にとって重要なことがある。興味のない人に教えるほど、辛いものはないからである。

 

 学校で教師をしていた時、痛烈に感じていたことは、いわゆる一般の中学や高校には、音楽に対して「興味を持っている子ども」と、「興味を持っていない子ども」とがいる、ということであった。僕は普段、合唱団や個人レッスンなど、音楽の現場で仕事をしている。すると、当然のこととして、そこには、音楽に「興味を持っている人」しかいない。なぜなら、興味を持っているから、そこに来るからである。だから、僕は、音楽に「興味を持っていない人」を想像することが、実はとても難しい。しかし、音楽を専門としていない一般の学校では、そういうことが当然ありえるのである。

 ・・・「興味」と言っても、一概に述べることができない。例えば、「得意」とか「不得意」とかある。「好き」「嫌い」。「出来る」「出来ない」。「分かる」「分からない」。「感じる」「感じない」。「経験がある」「経験がない」。いろいろなレベルによって、「興味」の種類が異なってくる。また、これらの組み合わせ方もある。「出来る」けど「嫌い」もあるし、「分からない」けど「好き」もある。また、「歌」は好きだが、「リコーダー」は嫌いとか、「聴く」のは好きだけど、「歌う」のは嫌いもある。ジャンルにおいても、「ポップス」は分かるけど、「クラシック」は分からないなど・・・。その人によって、「興味」の種類、度合い、取り組み方など、さまざまである。

 このように考えると、一般の学校における音楽教師の立場として、これら音楽に対する「興味」が異なるすべての生徒に対応することは、とても難しいように思われた。「興味がある」、もしくは「好き」ということが前提になければ、「教える」「教わる」を成立させることは、なかなか難しい。特に「歌」は、「自ら声を発する」という、とてつもない労力が必要なので、モチベーションが低い場合には、とても難しい行為なのだ。僕自身、音楽の授業では、そうしたことをあまり感じたことがなかったが、例えば、体育の授業は、それを感じたことが多かった。水泳やマラソンなどは、並ばされて強制的にスタートさせられてしまう。竹刀を持った威圧的な体育の先生が、笛を吹く。すると、一斉にスタートしなければならない。・・・これが、僕は嫌でたまらなかった。そもそも、水泳やマラソンは、「不得意」で「嫌い」なのだ。その上、教師の威圧感よる強制がはなはだしかったせいで、余計に嫌いになった。だから、僕は、水泳やマラソンの授業は、仮病を使い、ほとんど見学していた。・・・けれど、もし、「歌う」ことが嫌いな生徒がいたら、これと同じことになってしまうだろう。先生がピアノで前奏を弾いたら、強制的に歌い出さないとならないのである。

 学校の授業という場では、このようなことが多く見られる。だからと言って、個人の自由を尊重し過ぎても良くない。だから、教師は、こうした問題を見なかったことにして、一律に教えるしか方法がないだろう。どちらかと言えば、「興味を持っている子ども」を対象に教える方に基準を合わせるのが、教師とすると楽である。・・・でも、大学を卒業したての僕は、せっかく教えるのだから・・・と、意気込んでいた。クラス全員に、音楽に「興味」を持ってほしいと思うし、出来ることなら、みんなに音楽を「好き」になってほしいと思っていた。・・・所詮、そんなことは無理なのだろうが、これが僕の性分なのである。とにかく、同じ教室にいて、「落ちこぼれ」の生徒を作りたくない、という想いである。誰一人として、「分からない」「出来ない」という悲しい思いをしてもらいたくないのだ。・・・けれど、実際は、全く上手くいかなかった。人にものを教えるには、あまりにも経験不足であった。

 

 僕がこのように思うようになったのは、高校時代の苦い経験からくる。

 僕は小さい時から、比較的、優秀な方だった。勉強も、運動も、もちろん芸術も・・・。勉強のことで言えば、学校の授業中、先生の言うことがよく理解できたので、家に帰って、特別に勉強し直す必要がなかった。だから、塾も行ったことがなかったし、テスト勉強も頑張らなくて良かった。高校入学までは、それで問題なかった。けれど、高校の入学時に転機が訪れた。これまでのやり方では、授業の進行に全くついていけなくなってしまったのである。

 高校に入学する前に、高校から課題がたくさん出された。僕はのんびりしていて、それをやっていなかった。これが、そもそもの失敗である。そして、はじめての数学の授業の時、先生は、それを踏まえた上で、授業を開始した。教科書を1ページも開かなかった。先生は黒板で簡単に基礎を説明しただけで、いきなり応用問題を解きはじめた。僕はすっかり面食らってしまった。先生のはじめの説明が全く理解できなかったのに、授業が先に進んでしまったからだ。学年主任であった担任の平野英治先生は、数学における新たな教育システムを考案し、「目指せ!東大!」を掲げていた。平野先生の決め台詞——「俺の目を見ろ!何にも言うな!黙って俺について来い!」・・・僕は、この男子校ならではの威圧的・体育会的な雰囲気に、全く馴染むことができなかった。先生の目を見て、授業をしっかり聞いていたのに、ついて行くことができなかった。先生の話を理解することができなかった。・・・人生初の挫折だった。数学で出鼻を挫かれた僕は、他の科目でも、先生の話を聞く姿勢を完全に失ってしまった。

 しかし、これを先生のせいにしてはいけない。僕が勉強しなかったのが悪い。しかしながら、少し弁明をすると、そもそも、僕には家で勉強する習慣がなかったので、どのように勉強したらいいのかが、正直、分からなかったのである。僕にとって勉強とは、授業中に先生の話を聞いて理解する、ということだったのだから、後で・・・というわけにはいかなかったのである。・・・けれども、この勉強での挫折感が、その後の僕にとって、とても重要な役割を果たすことになる。青春の全精力を、勉強にではなく、音楽へと向けることができたからである。平野先生のもとでの「目指せ!東大!」は、高校2年生の秋から、音楽の茂木信義先生のもとでの「目指せ!芸大!」へと変わった。

 

 ・・・このような経験から、僕は人前で話す時、なるべく全員に話の内容が伝わるように気をつけるようにしている。人の話を聞いていて「分からない」というのは、とても悲しいことである。そのために、「好き」なことであっても、「嫌い」になってしまうこともある。それはとても残念なことだ。

 多くの場合、先生をしている人は、はじめから、そのものが、どちらかと言うと「好き」だったはずだし、どちらかと言うと「得意」だったはずである。だからこそ、専門的に勉強を積み、専門家として生徒に教えているのだろう。そのように考えると、生徒の抱える「分からない」「出来ない」「嫌い」ということが、本当の意味で理解できないことが多いのではないかと思う。そうであるならば、逆に「分からない」「出来ない」「嫌い」からスタートして、努力して「分かる」「出来る」「好き」になった教師であれば、その克服の経験を生徒に伝えられるのではないかとも思う。そうした道を、生徒と一緒に辿ることが、教育にとって、とても重要なのではないだろうか・・・。

 

 つまり僕は、歌の指導を頼まれた幼稚園においても、このように考えてしまったのである。「分からない」のは悲しい。では、みんなが分かるように・・・。けれども、僕には園児を教える経験がないので、本当に困った・・・ということになってしまった。そもそも、みんなのことを、僕が分からない・・・。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史