サイパン・テニアン戦没者慰霊の旅・2 | 孤独な音楽家の夢想

サイパン・テニアン戦没者慰霊の旅・2

(承前)

 

●「サイパン島」「テニアン島」について

 この2つの島は、現在、アメリカ合衆国の自治領(コモンウェルス)である「北マリアナ諸島自治連邦区」(通称 北マリアナ諸島)に属する。尚、これに「グァム島」は含まれない。

 日本から南へ2,400キロメートル。北マリアナ諸島は、伊豆諸島や小笠原諸島をまっすぐ南に伸ばしたライン上(「伊豆・小笠原・マリアナ島弧」)にある。これは、太平洋プレートが、フィリピン海プレートの下へ潜るラインである。(北マリアナ諸島の東側に落ち込む「マリアナ海溝」は、世界で最も深い海溝として知られている。)東京から硫黄島(小笠原諸島)と、硫黄島からサイパン島は、ほぼ同じ距離感にある。

 日本からサイパン島は、飛行機で約3時間30分。日本との時差はプラス1時間である。(ハワイなどと比べ、時差もほとんどないし、日本からはとても行きやすい島である。戦前も戦後も、たくさんの日本人が渡った。戦前は入植で、戦後は慰霊と観光で・・・。)

 

 ここには、もともと先住民族であるチャモロ人(東南アジア系)とカロリン人(オーストロネシア語族系)が住んでいたが、大航海時代に、フェルディナンド・マゼランに発見されてしまう。それ以降、この諸島と先住民の従属の歴史が開始されてしまう。「マリアナ」という名は、スペイン王「フェリペ4世」の王妃「マリアナ」(1634-1696)の名から取られた。まずスペインが支配者としてやってきた。それからドイツ。次に日本。そしてアメリカである。

 ・・・ここにやってきた支配者を名乗る者によって、たくさんの先住民が殺された。彼らの慣習や宗教、言語まで変えさせられた。古くからの信仰は失われ、島民の大多数はキリスト教となった。現在の公用語は、英語とチャモロ語であるが、老人は日本語を話すことができる。日本統治下で「皇民化教育」が行われたからである。天皇に忠誠を尽くすために、日本語を話すことを強制させられ、教育勅語を奉読し、神社を参拝させられたのだ。

 ・・・彼らの土地は、完全に奪われた。島全体が、アメリカ軍による凄まじい爆撃と艦砲射撃と火炎放射器で焼け野原となった。山や岩の形が変形した。そして、先住民と、日本人と、日本人に連れてこられた朝鮮人や台湾人と、アメリカ人の血が流れ、無数の死体に埋め尽くされた。武器や弾薬が無数に広がった。その後、アメリカ軍が空から蒔いた「タガンタガン」という樹木に、島は完全に覆われてしまった。まるで、ここで何もなかったかのように・・・。全ては「タガンタガン」のジャングルの下に、今もそのまま残されている・・・。「タガンタガン」の根は、無数の人骨を抱えていることだろう・・・。この木はとても生命力が強く、この木が生えた土地は、二度と他の作物が育たないと言われている。

 

 このようなことによって、椰子の木やサトウキビなどで栄えた島であったが、今では、観光しか産業がないという。僕らがここで食べたものは、現地のものはなく、全てアメリカからの輸入品であった。

 かつて、観光客の7割を日本人が占めていたが、JALが撤退した現在、僕らの行ったサイパン島は、ゴースト・タウンと化していた。何と、僕ら慰霊団は、4年振りの日本人ツアー客だと言う。島一番の繁華街「ガラパン」は、シャッター通りとなり、観光客ひとり歩いていない。大型ショッピング・モールはお化けが出そうな廃墟となっている。・・・それもそのはずであろう。ここは、たくさんの人が死んだのだ。それが、そのままになっている。今でも、島の至る所に生々しく戦跡が残っており、多くの慰霊碑が建てられている。・・・ここは、まさに、幽霊の島だ。美しいビーチさえも、破壊された船が沈み、武器や人骨がそのまま埋まっている。

 ・・・僕たち日本人は、他人の土地を、滅茶苦茶にしてしまったのだ。僕は、日本人として、とても責任を感じている。

 

 そう、僕たちが考えなければならないことがふたつある。ひとつは、ここで亡くなられた全ての人の魂を弔い、その死の意味を考え続けること。もうひとつは、サイパンやテニアンで何があったのかを知り、島や島民に対して反省の意を示すこと。そして、現実社会を知り、その心に少しでも寄り添うこと。・・・これには、答えがない。ただ、それを想い、考え続けることが大切なのだ。・・・ここは、決して、日本人が遊びに行くようなところではない。

 

○シャター通りとなっているガラパンの繁華街

 

●「サイパン戦」「テニアン戦」

 「第一次世界大戦」に参戦した日本は、1914年(大正3年)、ドイツ領だった「マリアナ諸島」を占領する。戦後の「パリ講和会議」の決定によって、1920年(大正9年)、そのまま日本の「委任統治領」となる。こうしたことを受けて、日本は、サイパン島に「南洋庁」の「支庁」を置き、植民地支配を開始する。それから多くの日本人が入植し、サトウキビ栽培などに従事した。その役割を一手に担ったのが、「北の満鉄、南の南興」と並び称される「南洋興発株式会社」であった。主たる事業は製糖事業であり、沖縄や八丈島、福島、山形から、また朝鮮や台湾からの多くの移民を積極的に受け入れたという。

 それから25年、「太平洋戦争」が勃発すると、この島は戦略上、両者にとって、とても重要な拠点となる。日本軍が太平洋戦線で退勢となると、大本営は、本土防衛のために「絶対国防圏」を設定する。その要所が、ここ、サイパン、テニアン、グァムを含む「マリアナ諸島」(中部内南洋)であった。なぜなら、もし、マリアナ諸島にある日本軍の飛行場がアメリカ軍の手に落ちてしまった場合、日本本土はそのほとんどが、アメリカ軍のB-29爆撃機の攻撃圏内となってしまうからである。この大本営の「絶対国防圏」の設定により、マリアナ方面にも兵力の増強が図られていく。それらの部隊の大部分は、中国大陸からの転用であったため、準備が大幅に遅れることとなる。物量に勝るアメリカ軍が、寸前まで迫ってきているというのに・・・。

 

 今から79年前、1944年(昭和19年)6月15日、アメリカ軍は、サイパン島の南西部の海岸に上陸作戦を開始。来襲した艦船は535隻。日本軍は水際作戦を展開するも失敗し、上陸を許す。一方、「サイパン戦」を優位に展開させるべく、6月19日、戦艦「大和」「武蔵」などを出撃させ、日本海軍の総力をあげて「マリアナ沖海戦」に挑む。しかし、壊滅的な大損害を受けて敗戦。この海域での制海権、制空権を完全に失ってしまう。丸裸となったサイパン島を守る術なく、日本軍は次第に北部へと追い詰められていく。22日間の激しい戦闘が繰り広げられるが、ついに7月7日、日本軍は「バンザイ突撃」にて玉砕。兵士だけでなく、民間人もアメリカ軍に追い詰められ、崖から身を投げるなどして、自ら命を絶った。(この集団自決は、軍の命令であった。「生きて虜囚の辱を受けず」との陸軍の戦陣訓が、民間人にも強要されたのである。)日本軍戦死者 24,000~30,000人(5,000が自決)、民間日本人死者8,000〜10,000人と言われている。

 サイパン島を制圧したアメリカ軍は、続いてグァム島に攻撃を仕掛ける。1944年7月21日から8月10日まで。そして、1944年(昭和19年)7月23日、当時、南洋最大といわれた飛行場を有するテニアン島(「不沈空母」と呼ばれた)の北西部の海岸に上陸。日本軍は4つの飛行場を奪われる。それでも、持久戦に持ち込もうと南部に広がる「カロリナス台地」に後退して戦闘を繰り広げたが、アメリカ軍の進撃が激しく、ついに8月3日、日本軍は「バンザイ突撃」にて玉砕。民間人も、日本兵と共に南部の「カロリナス台地」に後退していたが、アメリカ軍に追い詰められ、崖から身を投げるなどして、自ら命を絶った。(この集団自決は軍の命令であった。)日本軍戦死者8,000人、民間日本人死者 7,000人と言われている。

 

 サイパン島とテニアン島の本当の悲劇は、民間人が戦争に巻き込まれたことである。日本の民間人が、太平洋戦線において、はじめて犠牲となった戦いが、「サイパン戦」「テニアン戦」であった。逆に言えば、アメリカ軍が、太平洋戦線において、はじめて日本の民間人と遭遇した戦いであった。互いに互いのことを理解していなかったために起こった悲劇である。「南洋興発株式会社」の社員である男性や、その家族の学生などは、「義勇隊」として日本兵と共に戦って死んだ。残された年寄りや女性、子どもは、ジャングルの道なき道を逃げ、最終的に手榴弾や青酸カリ、海に身を投げるなど、自決を強要された。投降は許されなかった。

 そして僕たちが絶対に忘れてはならないのは、日本人に連れてこられた朝鮮人や台湾人、そして、先住民のチャモロ人やカロリン人も、日本の犠牲となってたくさん殺された、ということだ。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史